メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

宮藤官九郎 人の中で人は育つ 亡き父の教え@ファミリーヒストリー

2019-02-16 15:51:57 | テレビ・動画配信
アナウンサー:池田伸子
今田耕司
語り:余貴美子

今年の大河ドラマ「いだてん」
脚本を担当するのは宮藤官九郎さん


これまで数々の斬新な作品を手がけてきた
宮藤さんの作品には、時代や地域の中で懸命に生きる人々の姿があります

朝ドラ「あまちゃん」

キャッツ 懐かしい やっさいもっさい



まだまだ見てないのもいっぱいあるな


宮藤さんは、父親を早くに亡くし、自身のルーツについてはほとんど知りません

宮藤:
僕の名前、宮って書くじゃないですか
宮に藤って書く宮藤って読む人に会ったことないんですよ 親戚にもいないので
あの宮はどこから来たのかなって気になります

今田:
いよいよ2日後に今年の大河ドラマ「いだてん」がスタートするんですけれども
その脚本を宮藤さんが担当しているってことで 大変な仕事を受けましたね

く:思ったより大変でした

今田:
そりゃそうでしょ 思ったよりって、分かるでしょ 大河の脚本w
これからご自身のファミリーヒストリーを見ていただきますけれども

く:
この番組を何回か見させて頂いて ドラマがあるじゃないですか皆さんのお宅に
うちは関係ないなと思って見てました

今田:そうでもないらしいですよ

く:そうなんですか?


宮藤家のルーツ



出身地 宮城県栗原市
江戸の寛永年間から開発が進み、迫川を中心に町が栄えました
(ワイプで早速ナレーションにツッコミを入れているクドカンら

宮藤という名字は母方 この地域では1軒しかないと言います

実家の文具店を訪ねる

く:恥ずかしいわw






宮藤さんの母・泰子さん
そして、元教師で宮藤家を継いでいる姉の由美さん 二人で文具店を営んでいます

母:
本人が帰ってきましてね ポスターが大きすぎるとかね、大概にしろと言われましたw





母・泰子さんは 宮藤家のルーツについて不思議に思っていることがあります

泰子:
2年前、お墓をみんな引っ越ししなきゃいけなくなったんです
みんなホックリ返したら、お墓の石に“神官”ていう字があるのを見たんです


宮藤家の菩提寺 柳徳寺




震災後に墓石を立て直しましたが、墓字?は昔のままです




住職:
基本的に私たちの場合は、なんとか居士とか大姉とかですが
このような書き方はあまりないんですけど


4代前の高祖父 宮藤斎逸さんは、 神社に仕える神官だった






神官とは、かつて公的に任命された神職のこと
大きな神社の神職に仕われる役職でした

神官だったことと「宮藤」という姓は関係があるのか?
日本の名字を研究する盛岡さんに意見を聞きました

名字研究家 森岡浩さん
下に藤がついて、なんとかトウ、ドウという苗字の場合は
藤原氏の子孫だという可能性が非常に高いと思います
上のほうの漢字で一族が何をしていたかを表していることが多いですから
宮の藤ですから、宮っていうのは神社をさしますので
神社に関係した藤原さんという可能性が高いと思います

それでは高祖父はどこの神官だったのか?


平野神社




昭和6年若柳町全図を調べると、ここに古くからある平野神社でした
室町時代に建立され、若柳地区では一番大きい神社です

平野神社・宮司 平澤さん:
家にずっと先祖が書き残したものが残っていて
戦国時代から江戸時代に書かれたものを明治初期に書き写した文書です

「平野神社縁起」






戦国大名が戦勝祈願のために神社に寄付をしたことが書かれています
ここに同じような字の人がいますね

明学院というのがうちの先祖なんですけど
ここにどういう繋がりがあるか分からないですけど宮藤というのがあります

そこには、社司神主 宮藤安芸守近栄と書かれています

神道学者 第一人者 三橋健さん:
宮藤安芸守近栄という方は、この時代に天正3年(1575)に縁起が書かれています
その頃の神職をしていたと 平野神社のですね そのことがはっきりしております

さらに、平野神社の系譜には、宮藤安芸守近栄と平澤家が姻戚関係であったことが記されていました
江戸時代初期、宮藤家から出た浄山が分家し、平澤家を起こしたということが分かりました




現在の宮司家の平澤さんの家と、宮藤さんの家は
非常に家筋が同じだということを強調したかったんです
そして共に平野神社を守ってきたんだと

宮藤家と平澤家は親戚同士 互いに助け合いながら平野神社を守ってきました

平澤さん:
今まで全然一緒にやっていたと思っていなかった家が
昔はもしかしたら一緒にやっていたのかなと思うと、ちょっと不思議な縁を感じますよね


●慶応2年(1866)幕末 農民一揆
平野神社を舞台にしてある事件が起こります 高祖父の代でした
天候不順での不作と年貢の重圧に対する不満が募り、農民たちが起こした一揆

農民たちは平野神社に集結しました
その後、周辺地域にも拡大 農民たちは総勢4000人にまで膨れ上がります
その中心的な役割を果たしたのが平野神社でした
しかし一揆は失敗に終わり、平野神社を守ってきた宮藤家と平澤家は責任を取らされます

平澤家にそのことが言い伝えられていました

平澤:
殿様に抑えられてしまった ここから仙台はダメだって それで戻ってきたわけだ
そして家は責任者として罰せられた

この後、理由は定かではありませんが、宮藤家は神官の職を離れることになったのです





く:
びっくりしました 普通に子どもの頃よく遊んでいた神社なんです
別に僕がその神社に関係あると思ってなかったんで

今田:実はルーツがあそこの神社の神官であると

く:
その末裔っていうことですか? うちもその一揆をまとめたってことですか?
そういう感じじゃないですけどね
うちの家系にはそういう人の上に立つ感じはないですけどね

今田:でも今、大河をまとめてる 錚々たるキャスト

く:そうですね 今のほうが大河っぽかったですねw


宮藤家には家系に関する驚くべき事実がある
幕末に神官の職を離れた4代前の高祖父
その後、農地を起こし、地主などをして生計を立てました




しかし、一人息子の長男が20歳で亡くなります
宮藤家には跡取りがいなくなりました
養子として迎えられたのが、当時23歳だった吉三郎(曽祖父)でした




母:
私の父親もそうですし、吉三郎さんも西風(ならい)から来てるんです
私も西風から派遣されているんです
ならいの鈴木家は、代々宮藤家にみんな跡継ぎっていうか
そういう人たちが来る家なんですね しかも、同じ鈴木家から




ならいという屋号で呼ばれる鈴木家は、若柳から車で20分
岩手県一関市花泉町にあります

母の生家である鈴木家は、宮藤家とどのような関係があったのか尋ねました

Q:なぜ宮藤家に代々養子を出したのか 特別な繋がりがあったのですか?

鈴木昇さん、妻・京子さん:
聞いたことはないですね
私は親戚という話で聞いていました
ある程度大きくなってから、泰子さんの上に朝治さんも行っているということはその後で聞きました

花泉の蝦島地区には14軒もの鈴木家があります




一族の長老に鈴木家の歴史を聞くことができました

鈴木さん:
ここは蝦島という地域だけれど、源義経が平泉で最期を遂げた時に
家来になった人で、鈴木三郎という方がいた

その方が義経があそこで最期を遂げた時に
一応身を隠すためにこの地に入ってきた

義経の時代の伝説が残る鈴木一族
分家した一つがならいの鈴木家でした
ならいという屋号は、家に西風が強く当たることからつけられたと言います




曽祖父・吉三郎の名と祖父・朝治の名が記されています
残念ながら鈴木家と宮藤家の関係については何も書かれていませんでした

地域の歴史に詳しい山川純一さんが両家の関係を推測します

山川:
今の鈴木家のご当主の昇さんが、種の商売をされている方ですけれども
何代か前にも野菜の種の商売をしていた方がいると聞いています 縁もあるのかなと
商業関係のことで血縁関係を保とうとしたのかなという風に私は思います


明治23年 23歳で宮藤家の養子となった吉三郎に悲劇が襲う




結婚4年後に生まれた長男が1歳で亡くなり
次男を跡取りにしたので、三男を養子に出しました
しかし、家を継ぐはずだった次男が22歳の時に亡くなってしまいます 四男も死亡

吉三郎は慌てて自分の甥にあたる鈴木家の朝治を養子として迎えます
朝治は27歳で宮藤家に入りました
そして翌年、18歳のますよと結婚
ますよは体が弱く子どもができませんでした




泰子さんの実の弟・菊池孝司さんと妻・洋子さん
当時の経緯を姉の圭子さんから聞いていました




洋子:
お姉さんが言ったのは、朝治さんが子どもがいないので
今度生まれたら実家からということだって言っていましたよ
女の子でもうちによこすようにって言われたの

鈴木家に生まれた泰子 後の官九郎の母は
生後10ヶ月で宮藤家の養女になりました

圭子の回顧録にはこう記されています




泰子はもらい子だということは秘して育てられた
私はいとこということになっている
子どもの時から絶対口にしてはならないことだった

泰子は両親から大切に育てられます 服はすべて母の手作りでした






幼い頃から踊りが好きだった泰子
その姿を母・ますよはいつも喜んで見ていました

泰子:
まだ5歳にもならないかだと思うんですけど
その頃の童謡で♪雨降りお月さん という童謡がありまして
それに合わせて踊ってたんですね
そしたらうちの母親が着物を着せてくれて
夕方レコードに合わせて自己流で踊ったりしてたんです


そして泰子が中学2年生のある日
思わぬ形で自分が養女であることを知ります




泰子:
姉が岩手のほうの中学校に勤めていたんです そこに遊びに行ったんですね
そしたら、そこで姉が下宿のおばさんに「私の妹です」って紹介したんです
私のことをね いつもたいちゃんて言うし、私もけいこちゃんって言って
いとこだっていう風に教わって、そう付き合っていたものですから
その時初めて「実の妹です」って言ったんです
それではっきり「あーそうか」と思ったんです

Q:それを聞いた時、気持ちとしてはどうでしたか?

泰子:
そうだろうなと思ってたんですよ 顔が似てるw
鈴木家に行くと、みんな似てるんですよ 私と父親も似てますしね
だから多分そうなんじゃないかな もしかしたらなって思ってましたね

しかし泰子は帰宅しても、養女になった経緯を両親に確かめることはできませんでした

泰子:
すごく大事にされて、可愛がって育てられているから、聞けないですよね やっぱりね


昭和24年 自宅を改装して宮藤文具店を始める
泰子の高校、大学の学費の足しにしようとしたため
そして無事に短大を卒業すると、泰子に婿をもらう話が舞い込みます








その相手が、教師をしていた大場紹平でした(そっくり!
紹平は、お見合いの前に密かに泰子を見ようと宮藤文具店をわざわざ訪ねます
(ここはわざわざ再現ドラマなんだ 文具店のセットがよくできてるw




客として万年筆を買いながら、泰子をさりげなく見る計画でした
泰子から試し書きを勧められた紹平は
出された紙ではなく、テーブルのガラスに書いてしまいます

泰子:
試し書きの紙を出しているのに、ガラスケースに書いたw
それはもう本当に有名な話で皆で笑ったんです




その後二人は正式にお見合いをしました




泰子さんが大切にしまっている手紙




泰子:
これです 恥ずかしいんですけど
結婚式を挙げるまでの間に、主人と交換した手紙が入ってる

お見合いから結婚までの7ヶ月間 紹平から泰子に送った17通の手紙でした

く:すごいの出すんだ

あの万年筆のことも書かれています

紹平:
本当に書きやすいペンです ありがとう 絶対なくしません
もうあなた以外に考えられないくらい、自分は考えていたかもしれません
苦しいことも分け合い、楽しいことも喜びあっていきたい

く:
もう止めなさい 親のこれは恥ずかしい
そういうタイプじゃなかったですけどね

紹平の気持ちを受け止めた泰子
今まで誰にも語らなかった自分の生い立ちを紹平に打ち明けました

泰子:
結婚してから言われたのは

“よそからきて、そこの家の子どもになって育ったっていうことで
 やっぱり心の中で色んな葛藤があったと思う
 でもそういうのがあるから、人に対していくらかは思いやる気持ちが
 育ったかもしれないので、そういう人だったらいいかなと思って、俺きてやったんだ”

ありがたいことでございますw

そして、昭和30年11月7日 結婚 紹平26歳、泰子21歳でした


とっても良い夫婦





く:
なんでしょうね そんなタイプじゃなかったですからね、うちの父親は
亭主関白でしたからね 怖かったですし
僕もすごい怒られて ああいうタイプじゃないと思ってたんで あの手紙はちょっとやっぱり

今田:なかなかロマンチックなね

く:
恥ずかしいですね なんでそれを俺ここで聞かされなきゃいけないんだろ こういう形でw

今田:三代続けて鈴木家から養子を迎えてるって言うのはどうですか?

く:まさか3人とも鈴木から来てるのは知らなかったです びっくりしました

今田:
でもお母さんからはやっぱり、おばあちゃんに対して
自分が養女なんですねって言うことはなかったんですね

く:
母が祖母にそれを言えなかったっていうのはすごく分かるんですよね
だからあんまりなんかこう、今まで隠してるっていうのでもないし

時々俺は親戚の家に行っているんだけれども
なんか「お姉さん」って言葉が聞こえてきたりとかして
なんだろう でも田舎だからかって、ちょっとざっくり思ってたんですよね


父・紹平のルーツ
昭和30年 26歳で宮藤家の婿養子となった紹平の実家・大場家
宮城県大崎市の鬼首(おにこうべ)にあります

地名の由来は、坂上田村麻呂が鬼と呼ばれた悪党の首を切り
その首がこの地に飛んで鬼首という名になったと言われています

紹平の実家 大場家は鬼首の歴史ある家として知られています
く:温泉があっていいとこなんです

本家を継いでいるのは、十六代目・大場雅之さん(紹平の甥っ子)




大場家は300年以上続いています
江戸時代の頃、集落のまとめ役「肝入り」という役職についていました
そのため、雅之さんは集落を守る覚悟を親から何度も聞かされてきました

雅之:
やっぱり地域と仲良く、絆っていうんですか 連携してやらないと
こういう地域はもっていけないよっていう言い方をしていましたね

地元の歴史に詳しい歴史家・大山さんに大場家の役割を聞いてみました

大山:
肝入りをやって、名肝入りと言われたそうです
例えば危機に陥った時には、村人のために備蓄してある米を出してやるとか
あるいは仕事を見つけるとか
村人たちの生活のために尽力するというのが肝入りの仕事
鬼首の百姓の根幹を成したのは大場家であろう


昭和3年 紹平は大場家の7人兄弟の末っ子として生まれた




宮城師範学校に入学




幼い頃から教師になりたかった紹平は、仙台の師範学校に入学
昭和25年 中学の英語教師からスタートしました




そして、昭和30年 紹平は宮藤家に婿入りし、地元の若柳小学校に赴任します
初めて卒業させた6年3組の教え子達が作ったクラス会「六三会」は、今年で56年続いています








教え子たちには忘れられない思い出がありました

小野寺さん:
夏休みの鬼首に行ったこと
今でもあの当時の風景が目に浮かぶ
皆さんがそうだと思う それが私は一番の思い出

昭和36年 紹平は、子どもたちを連れ、
汽車と車を乗り継いで、自分の故郷である鬼首に行きました
紹平が考えた課題授業 泊まりがけのクラス旅行は、当時画期的なものでした

く:個人でやってたってすごいですよね

手作りの道具を使って魚を釣り、みんなで芋煮を作る 全てが初めての体験でした




菅原さん:
めったに泊まるとか、そういうことがないから
それ自体がワクワクって言うかね
そういう思い出がすごいインパクトが強いと思うんで
あまり騒ぎすぎて、私は次の日、声が出なくて帰ってきたw

小野寺さん:
先生っていう感じがしなくて、大げさに言えば父ちゃんというような感じ

紹平の口癖は「人と人との繋がりを大切にしなさい」

紹平は、卒業しても教え子たちとの交流を続け、何度も仲人を務めました




小野寺さん:
今の母ちゃん(妻)が未成年だったから、ちょっと難しい結婚だった
先生、実はこういう理由だって 「あー分かった、分かった もらってくるから」って
親元に言って、承諾を得てもらってきた
おかげさんで子供4人、孫10人授からせていただきました 感謝です

家庭では3人の子どもに恵まれます
結婚の翌年には、長女・浩子 5年後には次女・由美
そして、昭和45年に生まれた初めての男の子が俊一郎でした








母:
お父さんが1番嬉しかったようですね
それから宮藤朝治さん おじいちゃんがすごく喜びましたね
男の子が初めて授かったっていう感じで 一番おじいちゃんが喜んだ

俊一郎の命名には、長女の浩子さんが関わっています

次女・由美さん:
姉が当時、俳優さんで大出俊さんて方がいらっしゃったんですが
その俊さんのファンで、俊の字をつけたいと言っていて
じゃあ、姉の意思を尊重して、長男なんで一郎もつけて
俊一郎ということになったみたいなんですけど

「長くて嫌だ」って言ってました
テストの時に低学年だとひらがなで書かなきゃいけないですよね
そうすると一行書きできないって
「なんでこんな長いのつけたんだ」って言ってました


なんだろう、このコンテンツコンテンポラリーダンスみたいな写真ww
ファミリーヒストリーというより、クドカンの思い出話みたいになってる





恒例行事 「我が家の10大ニュース」
宮藤家には、父・紹平が参加を義務付けた年末の行事があります




母:
これは我が家の10大ニュースです 1971年から
自分の家で起こった色々なことを10大ニュースとして書いて大晦日に発表して

く:そんな前からやってるんだ 俺が生まれた時から

その年の当番を決め、その人目線で家族のニュースを10個考えます

次女・由美さん:
大晦日か、その前くらいにノートを渡されて、じゃあ今年はよろしくってなるから
みんな大抵、部屋にこもりきりになって考えて、絞り出してっていう感じw






何のニュースが選ばれたかは発表までは秘密
その内容に家族は喜んだり、合いの手を入れたりして盛り上がります

母:
俊一郎くんの担当は、昭和56年(1981)です
こういうすごい字でございますw

く:覚えてない





俊一郎が5年生の時に書いたトップニュースは
「お父さん校長先生になる 土曜日の晩酌とっても楽しい」

姉・由美さんのニュースもランクイン
「ゆみちゃん 若中で教育実習 授業は下手だったけど頑張りました」

9歳上の姉に、なぜか上から目線の俊一郎
家族が家族のことを考え、大晦日を笑顔で過ごすイベントでした




深夜ラジオのハガキ職人になる




俊一郎は、中学時代からラジオの深夜放送「ビートたけしのオールナイトニッポン」に夢中でした
ネタを書いては投稿する「ハガキ職人」になり、週に5、6通を投稿
しかし、なかなか採用されませんでした

由美:
その辺にぐしゃぐしゃと捨ててあるのを見ると
なんかくだらないっていうような下ネタとか書いてあるようなのが
ゴミ箱にポイと捨ててあって

Q:下ネタ系が多かったですか?

由美:多かったですね 好きだったんじゃないですか、そういうの

高校生になったある日 ついにその日が来ました(再現ドラマに爆笑するクドカン

俊一郎のハガキが読まれたのです 「ヤッター!」 嬉しくて 寝ている母に報告しに行きます




母:
すごい喜んで 私のお布団に入ってきたんですね
「読まれたぞー」って入ってきてね
読まれた、読まれたって 嬉しくて、もうこんなになってたんですよ

俊一郎が出したハガキがラジオで読まれたことは
その年の10大ニュース2位にランクインしました 昭和61年




いつも明るく過ごす宮藤家の中で、紹平にはある気がかりがありました
それは、妻・泰子が生家である鈴木家の兄弟たちと遠慮して交流できないことでした
そこで紹平は立ち上がります 鈴木家の兄弟会を作り、泰子を参加させたのです

鈴木家の兄弟会「鶴亀会」




母:
それまではあそこの家の娘として混ぜてもらって兄弟会っていうのはなかったですから
私はあくまで宮藤家の泰子だったんですね
だから鈴木家の兄弟の人たちの間に私も混ぜてもらって
紹平も混じって「鶴亀会」っていう会をしたっていうのは嬉しかったですね

参加した鈴木家の兄弟たちも紹平の申し出に喜びました




鈴木昇さん:
必ずこう一芸を出したりして場を盛り上げて、お酒が入ると急に楽しくなる方
兄弟会の中で揃って喋ってると、一人で目立つような存在のある人でしたよ
紹平先生とってもこいつが得意で


何してる写真だろう/爆

菊池孝司(泰子さんの実の弟):相撲甚句に合わせて土俵入りするんだもん

く:なんかすいませんw

紹平の十八番は、裸に座布団を巻いて行う相撲甚句
「鶴亀会」の欠かせない出し物になりました(クドカン爆笑

孝司さん:何かの集まりを設けて、ワイワイ騒ぐようなのが本当に好きだったものね

妻・洋子さん:
人柄がそうなんだよね 人柄がいい人だったので
みんなを楽しませるっていうのにはたけてたんだね

紹平は、親戚だけでなく、地域でも様々な会を作りました




母:新町商友会、新士会、鶴亀会、百目木会、婿会

Q:一年中何かの会をやってる感じ?

母:そうです そうです

由美:
忙しいんですよ、スケジュールが 忘年会の時期とか、新年会の時期とかになると
今日はあれの忘年会 次はこっち もうすごい好きなんですね 人と関わるのが

私たちもそれだけはずっと言われてる
やっぱりとにかく人と関わって、人の中で人は育つんだからっていうことを
小さい時から言われてますね

「人の中で人は育つ」 紹平が生涯貫いた生き方でした




く:
子どもの時とか、親戚の集まりになると、父親がちょっと席外すんですよね
スタンバイするんですけど もうその時点で俺はもう恥ずかしくて
やめてくれないかと思って

でも、ちょっとやっぱり自分はそれを受け継いでるっていうか
なんかやっぱり自分の今の仕事にちょっと繋がりがあるのかもしれない

でも10大ニュースでいうと恥ずかしいなって思ったのは、大晦日!
高校ぐらいになると友達の家に集まるんですね
19時ぐらいになると父親が来て「10大ニュースだよ!」って言われるんですよ
「ごめん、ごめん 10大ニュースだから」って一応抜けて
10大ニュースだけ聞いて「ありがとうございました」って言って、部屋に戻るみたいな 

今田:それは絶対にその担当の人の10大ニュースは聞かなきゃダメなんだ

く:
それだけは間違いなく そうやって一人一人の一年をちゃんと振り返るってことで
多分いつのまにか、その家族が今年一年何があったっけ
おばあちゃん何だっけ お母さん何やったっけとかって
考える習慣ができたのかもしれないですね


昭和63年(1988) 俊一郎  日大芸術学部で学ぶため、18歳で上京


うわ、急に松尾さん出てきた!

大学2年生の時に芝居の魅力にはまり「劇団 大人計画」に演出助手として入ります

く:若いな、やっぱ

ところが、劇団の仕事に夢中になり、ついには大学を中退することを決意しました

母・泰子さんが大切にしているものがあります

く:いろんなもの大切にしてるなあ

母:
俊一郎が学校を辞めることを決意して
お芝居とかそういうほうの道に行きたいということを
お父さんと私に初めて書いてよこした手紙です


「逃げ道がなくなって、今日から根性入れ直すつもりです どうか見捨てないでください」

これを読んだ父・紹平さんの反応は

母:
「好きなことがあるのは良いことだ やっぱり親は応援すすぺっちゃっ」て言ってたんです

(子どもの特性、やりたいことを優先させることが幸せであって
 いい大学→大企業へ就職→結婚&出産じゃないんだよね
 世間の親はここを間違えがち

息子・俊一郎の一大決心を泰子さんは27年間大切にとってありました

母:
これは原点ではないかと 俊一郎の
だからこうやって自分の気持ちを真っ直ぐに親に言ったのは、よほどの覚悟だと思います
だからやっぱりしまってたんです




平成9年『生きてるし死んでるし』




お父さんの芸と似てるのでは?w

宮藤官九郎として出演した舞台を父・紹平さんは初めて観に行きました

母:
本当に面白がってみたんですよ すごく笑ってね すごい面白い 面白いって
紹平に「ご苦労さんって楽屋に行ってみようよ」って言ったらね
「いや、あの人達は、これからご飯食べる時間だから」って もう帰りましょう
ご飯食べるのに邪魔になるからって それで帰ってきたんですよ
(泣ける いいお父さんだなあ




舞台を観てから半年もたたない 平成10年5月 紹平さんは突然病に倒れます




夫の看病を続ける泰子さんは、ある日1つの短歌を地元の新聞に投稿しました
紹平さんが丹精込めて作っていた野菜を題材にしました




「大根と蕪を抜き 春菊に苺も摘みました お父さん 早く帰ってきて」宮城・若柳 くどうたいこ

しかし、この短歌が紙面に載ったその日
平成10年7月19日 紹平さんが69歳でこの世を去ります
奇しくも官九郎さん28歳の誕生日でした




紹平さんの13回忌を終えると、泰子さんは教え子たちが集まる「六三会」に参加するようになります
紹平さんを「長期出張」と考え、泰子さんを副担任に任命したのです






名取でもある泰子さんは、得意の踊りを披露
紹平さんに代わって、教え子たちとの交流を続けています









宮藤官九郎さんは、舞台、ドラマ、映画と活躍の場をますます広げています
そして大河ドラマ「いだてん」で脚本を担当

父が目にすることがなかった息子の活躍
家族は、官九郎さんの作品を見て感じることがあると言います

由美さん:
ひとつ言われるのは、面白くて、いろんな題材なんだけど
必ずどこかに温かみがあるって言われるみたいなんですね、作品に
それは多分、父の情の濃さというか、いろんな人と密接に関わっていこうっていう
温かさっていうか それが影響していると思います

母:
だんだん年を取って、性格も似てきたのね
どっちかっていうと大雑把で、ぼーっとした人だったのに、少し細くなって

由美:
それは、やっぱり責任が出てきてるから
ちゃんとしなきゃと思うところも出てきてる

母:なるほどね


く:
父の言葉じゃないですけど、人と人のつながりなんだなっていうのは
こうやって見せられて、やっぱり思いますね


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