じっくりとは見ることが出来なかったのだが、
浅田彰×高谷史郎×坂本龍一
によるトークイベントの東京都写真美術館からのustream中継があった。
知識の薄いものにとっては、飛び出してくる単語についていけず、アーティスティックな要素に疎ければ余計に何の話をしているのかも不明な感じでした。
浅田さんが:ナルシシズムから解放されたアートの可能性について話をされていたのが一番印象的だったかな。
「東京の田舎者 」と激高する感じで話しをされていた。
高谷:自分の作品を美術館で見せるということで、自分の作品をまとめ、展覧会としては写真装置、写真という映像を作り出す装置そのものを考えるものになっている。
坂本:明るいと暗い、オブスキュラとルチーダ、というような対比の展示構成自体が作品のようで、素晴らしいと思った。
浅田:カメラ・オブスクーラ(暗い部屋)は大きく言うと、近代の自我、主観のモデルとも言える。 坂本さんの仰るプラトンの洞窟を近代化ー主体化したものがカメラ・オブスクーラと言える。
浅田:洞窟の比喩と暗箱の比喩があり、それがどんどん高度化して3Dや最新技術のものになっている。高谷さんの作品は、そういう装置として存在し、社会の暗くじめじめしたものを、すべて晒してまう
坂本:テキストなどの介在無しにイメージをダイレクトに伝えている。
高谷:明るい部屋というタイトルは、浅田さんの言う通り開けっぴろげにすること。アートというのは内面であるとかの投射物としてよく言われるが、そうではなく、
高谷;アーティストの考える社会の断面のようなものーメディアアートと言ってもいいーアーティストが手で作るのではなく客観的に作り出された外に存在しているものとして映像が存在すればいいと思った。
浅田:古典的なrepresentation(具象)は、メディウムを隠すこと、それは高谷さんが嫌うこと。全部メディア自体を露呈させることを高谷さんが行っている。
坂本:鏡の作品(mirror type k2)は展示の中心であり、光学的な関心の本能だと思った。
鏡の作品(mirror type k2)は左右反転した鏡像をうつしだす鏡の作品
浅田:高谷さんの作品は有限世界に無限の可能性を見るというもので、 東大寺再建のために重源は五輪塔という(地水火風)を完全な幾何学形で作ろうとしたが高谷さんの考えではそれは許されない。
坂本:即物主義が何故20世紀に入って出てきたかというと、ロマン主義や象徴主義を否定したいということで、情緒を否定するというところがある。
坂本;同時代人のサティとドビュッシーで言うと、サティは明るい部屋的な情緒を否定するような作品を作った。バウハウスも、アートでも平行してデュシャンの作品も同じ。
高谷;開けっぴろげのアートとはどういうものなのか。 内面をひけらかすのではなく、何かをオープンにするというのはどういうことか。
高谷:写真というのは、バルトを読んで感じたのは、写真というものを開けっぴろげた状態にしたときに、メディア・アートの起源に据えて考え直した方が良いのではと思った。
高谷;frost frames とToposcanはそれを押し進めたもの。
高谷;液晶画面やプロジェクターのレンズが作品の表面の素材なるのにそれを無造作に扱われることが多いと思っていたが、Toposcanはパナソニックのあのモニターでしかできないものになっている
YCAMが2013年に10周年で、1年のアーティスティックディレクターとして4つのインスタレーションと2つのパフォーマンスを行った。高谷さんと坂本さんとのコラボレーションを行っている。
札幌国際芸術祭のゲストディレクターをする坂本氏、今年はモエレ沼公園でForestSymphonyを見せる予定。
浅田彰×高谷史郎×坂本龍一
によるトークイベントの東京都写真美術館からのustream中継があった。
知識の薄いものにとっては、飛び出してくる単語についていけず、アーティスティックな要素に疎ければ余計に何の話をしているのかも不明な感じでした。
浅田さんが:ナルシシズムから解放されたアートの可能性について話をされていたのが一番印象的だったかな。
「東京の田舎者 」と激高する感じで話しをされていた。
高谷:自分の作品を美術館で見せるということで、自分の作品をまとめ、展覧会としては写真装置、写真という映像を作り出す装置そのものを考えるものになっている。
坂本:明るいと暗い、オブスキュラとルチーダ、というような対比の展示構成自体が作品のようで、素晴らしいと思った。
浅田:カメラ・オブスクーラ(暗い部屋)は大きく言うと、近代の自我、主観のモデルとも言える。 坂本さんの仰るプラトンの洞窟を近代化ー主体化したものがカメラ・オブスクーラと言える。
浅田:洞窟の比喩と暗箱の比喩があり、それがどんどん高度化して3Dや最新技術のものになっている。高谷さんの作品は、そういう装置として存在し、社会の暗くじめじめしたものを、すべて晒してまう
坂本:テキストなどの介在無しにイメージをダイレクトに伝えている。
高谷:明るい部屋というタイトルは、浅田さんの言う通り開けっぴろげにすること。アートというのは内面であるとかの投射物としてよく言われるが、そうではなく、
高谷;アーティストの考える社会の断面のようなものーメディアアートと言ってもいいーアーティストが手で作るのではなく客観的に作り出された外に存在しているものとして映像が存在すればいいと思った。
浅田:古典的なrepresentation(具象)は、メディウムを隠すこと、それは高谷さんが嫌うこと。全部メディア自体を露呈させることを高谷さんが行っている。
坂本:鏡の作品(mirror type k2)は展示の中心であり、光学的な関心の本能だと思った。
鏡の作品(mirror type k2)は左右反転した鏡像をうつしだす鏡の作品
浅田:高谷さんの作品は有限世界に無限の可能性を見るというもので、 東大寺再建のために重源は五輪塔という(地水火風)を完全な幾何学形で作ろうとしたが高谷さんの考えではそれは許されない。
坂本:即物主義が何故20世紀に入って出てきたかというと、ロマン主義や象徴主義を否定したいということで、情緒を否定するというところがある。
坂本;同時代人のサティとドビュッシーで言うと、サティは明るい部屋的な情緒を否定するような作品を作った。バウハウスも、アートでも平行してデュシャンの作品も同じ。
高谷;開けっぴろげのアートとはどういうものなのか。 内面をひけらかすのではなく、何かをオープンにするというのはどういうことか。
高谷:写真というのは、バルトを読んで感じたのは、写真というものを開けっぴろげた状態にしたときに、メディア・アートの起源に据えて考え直した方が良いのではと思った。
高谷;frost frames とToposcanはそれを押し進めたもの。
高谷;液晶画面やプロジェクターのレンズが作品の表面の素材なるのにそれを無造作に扱われることが多いと思っていたが、Toposcanはパナソニックのあのモニターでしかできないものになっている
YCAMが2013年に10周年で、1年のアーティスティックディレクターとして4つのインスタレーションと2つのパフォーマンスを行った。高谷さんと坂本さんとのコラボレーションを行っている。
札幌国際芸術祭のゲストディレクターをする坂本氏、今年はモエレ沼公園でForestSymphonyを見せる予定。