恥ずかしながら、「合理的配慮」という言葉を初めて知りました。
合理的配慮とは、ウイキペディアによると
「障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合、過度な負担になり過ぎない範囲で、社会的障壁を取り除くために必要な便宜のこと」。
障害者への一律の支援や配慮ではなく、自立支援としての配慮と私は判断しました。
さて、先日の参議院選挙でれいわ新選組の重度身体障害を持つ2人が当選したのを受け、参院のバリアフリー化が進められることが報道されていました。
山本太郎さんに対しての好き嫌いはあるかもしれませんが国会のバリアフリー化を実行させたことは称賛に値すると思われます。
近年、学校においても障害があるのかか、それとも性格的な特性かどうかをわからない生徒が入学するようになってきました。
彼は自閉症ではないか?
彼女はアスペルガー症候群?
彼と彼は発達障害なのでは?
単に、集中力がなかったり、落ち着きがない生徒なのか?
それとも発達障害なのかを迷うことが日々多くなってきました。
・授業中にトイレに行くことを申し出る生徒が増えてきました。
・ノートを書くのに、信じられないくらい時間がかかる生徒も入学するようになりました。
・全体の空気を読めないで、元気よく分けのわからない質問をする生徒も目立っています。
・良好な人間関係を築けないで孤立している生徒も一人や二人ではありません。
・他者の気持ちを察することができないで、周囲の人を怒らせてしまう傾向のある生徒もいるようです。
・独り言が多く、まわりが引いてしまう・・。
上記のような生徒は決して学力が低いとは言えません。
それどころか、一つのことに固執しがちなので勉強にはかえって向いているようです。
よって、当然のことですがそれなりの難易度の高い知名度のある大学にも、ちょっと変な学生が入学していること、そして彼らが講義やゼミなどの活動でうまく皆とやっていけないことも耳にする機会もおおくなってきたことも当然のことです。
保護者の口からも自分の子どもは病気であること。
多動であることを事前に相談されるケースも出てきました。
そのような生徒や学生を「平等」に扱うことに頭を悩ませています。
例えば、合理的配慮の事例として文字を書くことに時間のかかる生徒には他人の1.5倍の時間をあげたほうが親切であり、それが的確かもしれません。
しかしながら、ぎりぎりの人数で校務をこなしている学校においては現実問題として個に応じた対応はほとんど不可能です。
特別な対応をしてくれるような学校に移動してもらってはどうかという意見も聞きます。
でもそれを本人や保護者はその場から排除されると思うに違いないのです。