芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

「沸騰(ボイル)と○HK」

2009-12-29 10:10:10 | Weblog
年内、最後のブログである。
最近、ブログへの訪問者がなぜだか増加している。
その一因として勤務校の関係者の読者も増えているようだ。
また、一部の生徒もこのサイトを知っているらしい。
(思ったことをスグ口にする生徒たちは、
難しいことが時に書いてあり面白くないという感想も寄せてくれた)

そのような感想を寄せる生徒諸君も
私がチョットだけ語る雑談には興味があるようだ。
大学進学を考えるにあたっての学部選考では何名もの生徒諸君が、
「社会学を勉強したい」
「交流文化を勉強したい」
「サブカルチャーを勉強したい」
と興味が増したのも、
専門分野に基づく雑談が切っ掛けとなったかもしれない。

ブログの読者が増えることはうれしいが、
最近、書き込み内容に「毒」がないことも自覚している。

そこで、年内を締めくくるためには批評的なコメントを書いてしめてみたい。
それは、過去にも取り上げた「NHK紅白歌合戦」だ。

以前にもそれを取り上げたことがあるが、違う視点から考えてみたい。
国民的な番組を標榜するNHK紅白歌合戦。
NHKのテレビ放送開始の1953年以来、現在まで放映されている。
まさにNHKの歴史とともに歩んできた番組であるとも言えよう。
たぶん、テレビそのものが貴重であった時代には
そこで放映される殆ど全ての番組が全国民にとって興味深いものであったに違いない。
しかしながら、現代は飽食の時代。
テレビ番組においても多くの面白いメディアが氾濫している。
私には、最近の紅白歌合戦にはどうしても独自性や娯楽性が感じられない。
強調したいことは、
それはNHKという「官」が作ったものでなく、民で流行ったもののつまみ食いだ。
例えば、トヨタのCMで人気者となった「子供店長」の出演も今年のウリだそうだ。
また、
インターネットの動画投稿サイトの「ユーチューブ」で
世界的に人気者になった「スーザンボイル」さんの登場も同番組のウリだ。
ネットで話題となっていることをテレビが取り上げて放映することで、
ネット視聴者以外の人々に話題を拡張している。
その代表例がまさに、英国の「スーザンボイル」だろう。
一時的な人気獲得は可能かもしれない。
しかし、そんな手法を繰り返していくことによって、
ますますテレビ番組放映局の存在意義は薄れていくに違いない。
民放局も状況は同様だ。
中小零細な番組作成会社に、番組作りを丸投げしていることが多くなれば
テレビ局は「卸売り問屋」や「仲介業者」としての機能を拡大するであろう。
「問屋」抜きで、生産者と消費者が直接、取引きをする時代にあってテレビ局の役割を考えなおす時ではないだろうか。
特にNHKには税金が投入されている。
それゆえにNHKの紅白歌合戦には変革がなされていることを提示する番組機能を期待してしまうのである。


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「振りカエル一年」

2009-12-22 10:10:10 | Weblog
 未だ一年が終わったわけではないが、
JUWAT教授のおかげで本職以外の別の顔の部分でもとても充実した一年であった。
『コミュニケーション論』のテキストの作成にも参加させていただいた。
このような機会がなければ分担執筆の
「異文化コミュニケーション」「ステレオタイプ」「病と死」
に関して自分なりに深く調べ上げて作品にすることは不可能だったに違いない。
春までには世界思想社から出版予定である。
今から刷ったばかりの本を手元に受け取ることが楽しみである。

次に「現風研」で口頭発表をさせていただいたことだ。
突然の、しかも質疑込みで3時間にも及ぶという依頼。
それに対しての不安も重なり8月、9月の2ヶ月間、
自由になる時間のかなりの時間をその発表準備につぎ込んだ。
鶴見俊輔、井上俊といった著名な学者によって始められた思想の科学
(幸福ではありません)が基である現風研。
発表まで緊張が継続したが、
出席者が研究者以外の一般の方も参加する気楽な会であると判ったのは発表後であった。
2年ぶりの口頭発表は記憶に残る満足のいくものだった。

そして、年末に「カルスタとサブカル」について講義をする機会をいただいた。
大学生、市民大学生あわせて約200名からなる全学部開講講座。
私自信、日頃中学生や高校生の前では話慣れているが、
「教師だからうまくできて当然」
といったプレッシャーを浴びることに不安を感じていた。
それを排除するために、入念なる準備をおこなって講義にのぞんだ次第だ。
愛用の”I phone”に無料のプレゼンタイマーをダウンロード。
約70分話し続けた。
受講者を飽きさせないために何度も練習をおこなってもきた。
例えば、前日の練習だけでも、
右手にはマイクがわりのサインペンを持ち、
左手にはパワーポイント画面切り替え用のリモコンを握った。
午前も、午後も声がかすれるまで練習を繰り返した。
おかげさまで、当日は指定された時刻ちょうどに講義を終了することができた。
講義の質問は一件。
市民大学の受講者と思われる初老の老人から
「今日の講義に関して私が出版した書籍があれば購入したい」というものだった。
たぶん、他の講師陣のミヤさん、ウミさん、セヌさんたちの出版本をご存じなのかもしれない。
春先に出版予定の『コミュニケーション論』にも一部内容が掲載されます
と返答させていただくことにとどまった。

いずれにしても日頃、授業アンケート、保護者授業参観、授業見学と
見られることには慣れている私であるが、
最前列に座る師匠のJUWAT教授や同じゼミ生たちの熱い視線を感じながらの講義は、
緊張そのものだった。

課題として、この一コマの講義準備時間に比べて、本業の準備不足を痛感した。
それは今後の反省材料でもある。
いずれにしても、この機会を与えて頂けただけでも感謝・感謝である。

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秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』新潮社

2009-12-15 10:10:10 | Weblog
これは、JUWAT教授がゼミ中に話題にされた書籍である。
私自身、恥ずかしながらワシントンハイツについてまったく知らなかった。
日本敗戦後の米兵の住居については日本史の教科書にも登場しない。
その場所は、代々木公園と代々木競技場、そしてNHK放送センターまでの地域であり、
明治天皇を奉るために作られた人工の森の明治神宮にも隣接している。
当時、そこに暮らしていた
将校などのインタビューも含めた詳細なデータも基づく作品でもある。
一読の価値有りお奨めの一冊です。
職場の同僚であり、
参宮橋駅近辺に住む「山ちゃん」先生に
ワシントンハイツについて聞いてみると
幼少の頃に、
鉄条網を潜り抜けワシントンハイツに入り込み遊んだ経験があるとの返答だった。
また、別の日本史を教える教員にも尋ねてみると、
「ウィ~!受験に出ないのでヤンナイッスね~」と
電車が駅のホームに入ってくることを注意するかのような口調で答えてくれた。
以下に印象に残っているいくつかの内容を紹介したい。
まずは、東京大空襲についてだ。
そこの「山の手空襲」は、1945年5月25日。
22時22分から2時間。
品川、目黒、蒲田などを爆撃機B29が525機も上空を飛んでいた。
その日だけで559人が犠牲になっている。
真夜中の暗闇が戦闘機で埋め尽くされていたことを想像しただけでぞっとする。
 次はライシャワー氏についてだ。
ライシャワーは、明治学院大学の礼拝堂、東京女子大学の校舎など
現存する有名な建物を設計した建築家である。
彼は戦時中、母国アメリカにおいて重用されたそうだ。
アメリカの何もない砂漠に東京の街とドイツの町並みを作り
最も効率の良いやり方で日本家屋を焼き払う研究に従事したのである。
実際の空爆にもそれらのデータがたいへん役立っている。
ライシャワー氏の別の面もこの本で知ることができたのである。

ジャニーズ事務所の創業者のジャニー・ヒロム・キタガワは
ワシントンハイツに暮らした日系アメリカ人だ。
ワシントンハイツの自分の家に、
キタガワ氏は近隣にすむ日本人の子どもたちを招待していた。
「ジャニーズ少年野球団」を作りワシントンハイツ内にある野球場で
週末に野球を楽しんでいた。
野球以外でもワシントンハイツに頻繁に遊びに来ていたのが、
代々木中学野球部の四人組の飯野おさみ、真野ひろみ、あおい輝彦、中谷良である。
現在でも嵐、KAT-TUNなど
ジャニーズ事務所の若手によるファン感謝を目的に野球大会が実施されている。
野球という球技は、創業者の野球好きと関連があるかもしれない。
エンターテイメントが戦後の日本にも根付くと予想したジャニー氏。
それは日本がアメリカ化するという予想に基づいてのものだったのかもしれない。

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「音楽鑑賞会」

2009-12-08 10:00:00 | Weblog
 都内の多くの私立学校が音楽鑑賞会を実施しているようだ。
時期も殆どの学校が12月あたりだ。
12月のコンサートやリサイタルは
個人事業者たる音楽家の冬のボーナス稼ぎと聞いたことがある。
実際に毎年忙しい月にも関わらず12月に実施されている。
会場は池袋芸術劇場、上野文化会館などの公共の施設を借りて、
オーケストラによるクラシック音楽を鑑賞するのが定番だ。
私の勤務校でも上記したように毎年音楽会が何十年間も継続実施されている。
殆どが、クラシック音楽であるが、
時に和太鼓だったり、ウイーン少年合唱団だったりすることもある。
しかし基本的には、
高級文化(ハイカルチャー)であるクラシック音楽鑑賞会が実施されてきた。
しかしながら、今年はクラシック音楽ではなく、
角田健一ビッグバンドによるジャズの鑑賞会だった。

ジャズ鑑賞会についての生徒の反応はおおむね良好。
クラシック音楽を聞くと、
その心地よさゆえに寝てしまう生徒が多い。
熟睡して教員から注意を受ける男子生徒も
ビッグバンドのノリと爆音でとても寝ることなど出来なかったようだ。
サブカルとカルスタのことが頭の片隅に残っている私は、
これってサブカルかもしれないという感想を実は抱いた。
なぜならば、アメリカ合衆国南部の黒人奴隷たちの魂からの叫びとしての音楽。
そんな音楽が、
時を経て明るい公共のステージで約1000名もの日本人の生徒たちに対して
教育目的でジャズが演奏されている。
しかも演目は、
「ムーンライト・セレナーデ」や「シング・シング・シング」
といった有名な曲に加えて、
「となりのトトロ」「ルパン3世」「八木節」がジャズ風に編曲されて演奏されていた。
精神性など消えうせ、日本的に変化したジャズ。
これはまさにサブカルではないかと思わずにはいられなかった。
さらに、たまたまだと思うがビッグバンドのメンバーは
60歳位のメンバーで構成されていた。
団塊の世代のメンバーを中心とするプロのビッグバンド。
音楽の変遷とも重ねあわせて様々なことを考えてしまった。

* 演奏したビッグバンドもさぞかし驚かれたと思うことがある。
というのも今年はインフルエンザ騒ぎで、
全校生徒が一同に会する事をできるだけ回避している。
避難訓練も延期に次ぐ延期。
始業式も全体での集会を避けて、
あえて放送での始業式にしたほどだ。
そんなインフルエンザの感染を恐れて、
音楽会参加者全員はマスク着用が義務付けられた。
つまり、観客全員がマスクを着用していたのだ。
私も客席でマスクを着用していたので、
全体の様子は良くわからないが
演奏者から見る観客席は異様だったに違いない。
その映像って「マスク」のテレビCMに使えそうな気がする。
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「ラジオ体操」と「ドッジボール」

2009-12-01 10:13:47 | Weblog
「ラジオ体操」。
スポーツをする前の準備運動として、
誰にとっても身近な準備体操はラジオ体操ではないだろうか?
私が勤務先に到着する頃にラジオ体操を終えて、
帰宅途中の老人たちに遭遇することがある。
(何時から仕事しているのか驚かれてしまうかもしれません。)
映画「コクーン」でプールに入った後に若返った老人たちのように
彼らは、すがすがしい表情で、会話を楽しみながら帰宅する老人たちである。
そのように地域に根付いているラジオ体操であるが
学校教育のナショナルカリキュラムとしての学習指導要領には、
いっさいその言葉は含まれていない。
学習指導要領やそれに基づいて教科書を執筆している専門家たちからは
学校教育現場におけるラジオ体操が目の敵にされているからだそうだ。
理由は、さまざまに述べられているが、
簡単に言えば、「全体主義的な運動の象徴」とみなされるからである。
学校現場で、ラジオ体操を準備運動の代用として利用している場合は、
体育や教育の研究者や専門家からは勉強不足であると判断されること間違いなしだ。
しかしながら、学校教育から排除されても、それが絶えることはない。
夏休みなど学校から開放された子どもたちは、
ラジオ体操に参加したことを証明する出席カードを首にかけ、
体操後に押されるスタンプ、そして景品を楽しみに体操に参加しているのである。
結果としてラジオ体操を子どもの頃から身体として覚えこんでしまうのである。

同様なことがもう一つある。
それは子どもたちに人気の「ドッジボール」だ。
ドッジボールも学校で学ぶ球技種目には入っていない。
これも、研究者や専門家たちによって学校教育への導入が排除されているからだ。
それは、「人を的にするゲームはよくない」という理由からだ。
授業の種目からは排除されても、
プレイの面白さがあるので子どもたちにとっては、
とても人気のある遊びである。
授業時間にやらなくても
自主的にボール一つあれば、休み時間にそれをしている子どもたち。
高校生くらいになると、「加減をする」でゲームを楽しんでいる。
的となる相手に応じた加減をしないと、
周りからのブーイングを浴びること間違いなしだ。
男女混合でも十分に楽しめるスポーツなのである。
加減のできない幼児や小学生の低学年への問題が
過度に強調された結果としての排除である。

これについてあなたはどう思われますか?
上にあげた二例とも、公には排除され、
見方によっては隅っこに置かれているものである。
しかしながら、消滅することはなく
未だに根強い人気があり伝承されている運動とスポーツである。





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