芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

にっちもさっちもブルドッグ

2008-12-23 21:40:31 | Weblog
明日はクリスマスイブ。
 そしてあと一週間ほどで今年も終わろうとしている。
このブログも内容はさておき、
毎週書くことは、なんとか継続できている。

基本的に
批評はかいても愚痴は書かない。
 職場のことを書かない。
主たる研究分野に関してのことを書かない。

上記の理由により、
主たる研究分野でない広告やメディアに関しての内容が書きやすい。
たぶん、それらの投稿記事は専門家にとっては物足りなく、
一般的には面白くない内容かもしれない。
そのような内容にも関わらず、
このブログを読んでくださる多くのファンの方には感謝するしだいです。

さて
年末のこの時期に、
派遣労働者の首切りが社会問題としてニュースに連日のように取り上げられてい
る。
派遣労働法の盲点については、多くの識者が指摘している。
法的、経済的な指摘はまさに言われているとおり、
企業を中心とした企業にとって都合の良い考え方にほかならないのだろう。

 ここでは私の視点で気にかかることを指摘してみたい。
一般的に派遣労働者が勤務しているのは24時間稼働の工場だ。
それらの工場は地方に殆どが点在している。
街の中心部から電車を使って通える場所にはないのである。
特に夜間から早朝にかけては。
必然的に、そのような場所で働いてもらうために企業は宿舎を用意している。
職を失えば、そのような宿舎から出るのは当然だと思うのだが・・・。
住み家を追われ、明日から野宿、そして浮浪者。
それだけがやけに強調されすぎているような気がする。

次に、
 連日テレビで放映される派遣労働者の勤務先がなぜか
日産ディーゼル上尾工場だ。
たぶん、
 埼玉県上尾市は在京キー局にとって最も近い場所にある工場なのだろう。
撮影場所までの距離が近く、撮影が楽。
さらに個人で加盟できる労働組合が東京にあり、
それらの支援が入り易い場所ということもあるかもしれない。
それにしても疑問に残るのは、なぜ日産ディーゼルかということだ。
たぶん、CMの放送数との関係があるのかもしれない。
 やはり民放では
 最もテレビに関連が少ない自動車メーカーがとりあげられている
と考えてしまうのは、わたしだけであろうか?
 

 最後に、フリーターは1980年代後半に、
 俳優・ミュージシャンになりたい
という明確な目的をもってアルバイトをする人たちの総称だった。
フリーーターとは明らかに異なる若年派遣労働者たち。
現在、30歳近辺の若年労働者たちは、
派遣という不安な仕事から逃れて正社員となるためのチャレンジ
をなぜしてこなかったのかなあ?という疑問が生じる。
しかしながら、その明確な答えを私は今見つけられそうにない。
それもまた、現代を生きる若者の特徴のようである。
 
 今回のタイトルはまったく内容とは関係していない。
 単なる思い付きです。
 まさにニッチもサッチモどうにもブルドック
 www.youtube.com/watch?v=xs1cHsDjRdM
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「遊び」とロマンティック・ラブ

2008-12-17 23:10:46 | Weblog
『恋愛の社会学』(谷本菜穂)を読んで。

久しぶりにジェットコースターに乗ったような気分を味わえる本だった。
薄っぺらな恋愛指南書とは異なり
「恋愛」についての理論的な考察がしっかりされていた。
自己と他者との関係についてとても学ぶことが多かった本でもある。

なかでも最も興味深かったのは70年代と現代との相違だ。
例えば、浮気に関する言説。
雑誌記事において1970年代では
浮気をする男性と女性二人という三者構造が基本。
現在は三者とも限らないし、女性の浮気も登場している。
女性から男性へのアプローチの言葉もまたおもしろい。
70年代には調査した雑誌にはそのようなアプローチは存在しないそうである。
現代は「いっしょにいたい」、「あなただけ」・・。

山田昌弘さんの引用も各所にみられた。
社会を安定させる作用として、
結婚前は自由奔放で「遊んで」いることを許されても、
結婚後は社会秩序を乱さない「真面目」で現実的な生活を要請されている。
さらに、戦後から1970年代までが恋愛結婚の普及期。
なぜならば、生活水準も高くなく結婚後に期待する水準も低かったから普及したそうだ。
結婚生活や子育てについての水準があがったことに反比例して、
73年のオイルショック、
92年のバブル崩壊後には婚姻率が下がったそうである。

その他に本文中に登場した理論を自分へのメモ書きとして
以下に書きとどめておきたい。

「相互行為儀礼」ゴフマン
人間関係を完全に決定づけず曖昧なままに保持することで、
傷つけ合わないような距離を作っている。さりげない気遣い。

「コケットリー概念」ジンメル
 イエスとノーの不安定な遊戯、承諾の回り道であるかもしれない拒絶、
 その後ろに取り消しが立っている承諾

「再帰性」ギデンズ
 社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によって
 つねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていく

「フィギュール」バルト
 ディスクール(=言説)の破片。例えば、「苦悩」、「接触」、
「告白」、「あやまち」、「同一化」といった言葉

筆者によると90年代以降の恋愛として
話が合う、趣味が合う、ノリが合う、
価値観が合うなどが新たな魅力としてあがっているそうだ。
かつての「恋人にするなら同伴して恥ずかしくない人」
という外部とのコミュニケーション関係から内部だけの関係、
つまり恋愛が社会に対して閉ざしたものになったことが特徴だそうだ。
曖昧な関係な似たもの同士による小宇宙。
恋愛だけでなく「若者」の特徴であることを再確認する本でもあった。
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下から上へ

2008-12-10 21:46:35 | Weblog
貴族からブルジョア、そして庶民へ。
高級文化から大衆文化へ、
国から地方へ
という上から下に流れる縦の動きがある。
これは殆どの物が該当する。
お金持ちしか手に入れることができなかった憧れの車は、
今や庶民の手の届くもの。
貴族の為に音楽を奏でたオーケストラも、
今では生徒の情操教育を目的に演奏されるまでになっている。
それに反して、下から上への流れも見られる。
「地方から国を変える」というメッセージはタレント知事の決まりセリフだ。
不良であると決めつけられていたピアスも、
大人のオシャレアイテムとして受け入れられてもいる。
茶髪もまた然りだ。
 さて、今回の指摘はそんな地方から国の動きが
テレビコマーシャルにも見られるのではないかということだ。
 かつて、地方局のテレビCMは静止画もみられた。
画像が停止し、音声のみが流れるだけだった。
現代では静止画のCMはなかなか見られない。
静止画のテレビCMで多かったのはパチンコ店である。
首都圏でもこのごろやけに多いのが
パチンコメーカーの新機種紹介のテレビCMだ。
パチンコ“必殺仕事人”、パチンコ“冬のソナタ”、
さらにパチンコ“アグネスラム”。
これは意味しているのは何だろうか?
間違いなく、アグネスラム世代を意識している?
それはまさに、団塊の世代である。
定年退職し時間を持て余している老人?
彼らをパチンコ店という遊技場に集めたいという意図が見え隠れする。
少子化の影響で、若年者の遊技者数減少が予想されるために、
ターゲットを60歳に設定したのであろう。
まさに、時間とお金がありそうな層に目をつけたことは想像し易い。
しかしながら、
団塊世代の人々が高額な年金を手に入れることができるわけでもなく、
高額な退職金を手にすることができたわけでもない。
渡辺先生がおっしゃるように、
そもそもある年代や世代を
団塊の世代とひと括りにしてしまうことこそ問題ではあるが。
 
 その他の同様のテレビCM事例として、
最近、首都圏でも目立ち始めたのが専門学校、大学のCMである。
私が最近印象に残ったのは東海大学、創価大学のCMである。
キーワードは多様と最先端。
それらの大学が首都圏でテレビCMを打つことができるのも、
大規模校だからこそできるのであろう。
もっとも大学名を伏せてしまうとどの学校のCMか判断できないが・・。
それ以外にも東京会計専門学校、東京モード学園、そしてHAL。
話はそれるが、HAL(ハル)は知っている人にはとてもインパクトがある名だ。
HALは映画2001年宇宙の旅に登場する人工知能コンピュータ。
その元になったのはコンピュータの“IBM”であることはあまりにも有名だ。
HALを一文字づつ右にづらすとIBMになるのである。
 それにしても、学校のテレビCMについては一つ疑問が残る。
それのターゲットは高校生のはず。
まずは、彼らはテレビを見るのだろうか?という疑問。
さらに、子どもたちはCMをカット又はスキップするのではという疑義。
そう考えると、
高額な金額を投資しても
ターゲットにそのメッセージは届かないのではないだろうか。

*治したはずの刺歯がわれてしまいました。
日々髪は元気なく薄くなり始めています。
そして刺歯はいかれ、肌の張りもありません。
反比例して人間の魅力が増せば良いのですが・・。それも難しいかな。

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『卒業面(そつぎょうづら)』

2008-12-03 21:42:29 | Weblog
 ”ヅラ”という語尾の音を聞くと”でしょ”という故郷の言葉を思い出す。
 それはさておき卒業面(そつぎょうづら)という言葉は
 最近、読んだ本で印象に残った言葉だ。
卒業面とは明治・大正期に女学校教育を
 最後までやりとげる不美人をさしていた。
 現在でも退学者が多い学校が話題にのぼるが、
 現在のそれとは、まったく異なる理由で退学していた美人が多かったのである。
 当時の女学校で実施される授業参観は、外部にも公開されていたそうだ。
 授業参観は、嫁選びの場となっていた。
 授業参観が行われている学校は、まさにオークション会場、
 市場(いちば)と化していたのである。
 美人ほど、突然に学び舎を去らねばならなかったというわけである。
 慶大のある教授が、学歴が高まれば高まるほど美人が少なくなると
 冗談半分に言っていたことをふと思い出した。

  当時、恋愛結婚は殆どなく、結婚は「家と家」だった。
 「家と家」の結婚を丸く収めるためには、
 不美人と結婚することの方が幸せになれるという言説が必要だったのだろ。
  明治期の女学校の修身(道徳)の教科書『中等教育・明治女大学』には、
 以下のような記述がある。

「美人は往往、気驕り心緩みて、却つて、人間高尚の徳を失ふに至るものなき
にあらず……之れに反して、醜女には、従順・謙遜・勤勉等、種種の才徳生じ易き傾あり」。

 学校教育で、「美人」が堕落しやすい。
「不美人」は性格がよい。
と教えられていたことはとても興味深い。
 時代が変わり、「個と個」の関係が持てはやされる時代になると、
一時、美人が持てはやされるが、その美人も非難の対象となった。
それに対応するかのように美人とは、
心身ともに美しい人という「健康的な美人」に美人の定義が変化したことも面白いし、
それがおこった1910年代に
日本女子体育大学や東京女子体育大学の元となった
学校が設立されたことも「健康」をキーワードに合点がいく。
それはまさに時代を反映しているのであろう。
 現在では、表立って美人、醜女を区別することはない?
美しい人が多くなっているのではないだろうか?
つまりそれは、女性全員が美人をキーワードに、
さらに詳しく言えば、
”美しくなる”をキーワードに
美容産業のターゲットにされている影響とその効果でもあろう。
洋服、カバン、痩身、美顔、美容整形等は美しくなるため装置だ。

有名企業のシャンプーのコマーシャルには、
あまり美しいとは思えない南海キャンディーズのシズちゃんも登場している。
かつての憧れを抱かせる手法から、
美人からシズちゃんまでもが使用しているのなら安心。
自分も、ぜひ使用したいという気持ちを起こさせ幅白い顧客層を囲い込んでいる。
時代とともに美人の概念がかわり、美人とされる人も変わってきている。
いったい、今後、「美人」はどこにいくのだろう?







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