前回、ゼミで沖縄の米軍基地が話題になった。
米軍基地周辺に暮らしていない殆どの国民は現実問題として、
基地問題を自分の問題として考えていないのではないかとか、
本来、米軍基地が未だに日本にあること自体が問題なのではない等、
議論は多岐に渡った。
その場では保守的な意見も目立ち、
議論を聞いているだけでも基地問題はたいへん興味深いものだった。
実は、10年程前に私は沖縄の米軍基地内を見学したことがある。
場所を良く覚えていないが、
那覇から遠くない「キャンプ・キンザー」だったと思う。
それは大手旅行代理店JTBの企画だった。
沖縄の異文化に触れることを目的に実施された修学旅行。
生徒たちは、基地内の米兵宅にショートホームステイをした。
半日ホームステイだったと記憶している。
基地内に入ると、まさにそこはアメリカの町そのものだった。
昼食は、ジュークボックスが設置された
ハードロックカフェ風のレストランで
コーラを飲みながら大きなハンバーガーとポテトを食した。
何名かの生徒たちは、
ホストファミリーと基地内のボーリング場でゲームを楽しんでいた。
(無料だったような・・)
米軍の戦闘機を見学したり、
米兵住宅でゆったりとやわらかめのソファーに座り、
ポップコーンを食べながら映画を見ているという、
まさにカウチポテト体験をしていた生徒もいた。
私が最も印象に残っていることは、基地内の住居だった。
住居は、日本の言葉で言えばいわゆる「マンション」だった。
海に面している住居は、
何の障害物も無く明るく開放的な窓からは広大が沖縄の海が見えた。
構造全てがアメリカ仕様でもあった。
玄関ドアは、日本のドアよりもかなり大きく厚い鉄製であり、
防御扉といっても過言でないようなものだった。
ドアは、スペースの確保を目的とした日本のドアのように
来客者が引くものではなく、来客者が内側に押すタイプ。
身を守るためにウチ開きであることもとても印象的だった。
物事について深く考えたり、
物事について疑問を感じたりする今の私であれば、
当時の旅行計画について異議を申し立てたて、反対したかもしれない。
しかし、当時の私は基地内を見学し、
修学旅行の行程の一部として
米兵宅にホームステイをすることに何の疑問も持たなかった。
僅か一回で終わってしまった企画ではあるが、
私たちが暮らしている空間とは別世界であったことは間違いない。
そこはまさにアメリカだった。
未だに私の記憶に鮮明に残っている引率体験である。
米軍基地周辺に暮らしていない殆どの国民は現実問題として、
基地問題を自分の問題として考えていないのではないかとか、
本来、米軍基地が未だに日本にあること自体が問題なのではない等、
議論は多岐に渡った。
その場では保守的な意見も目立ち、
議論を聞いているだけでも基地問題はたいへん興味深いものだった。
実は、10年程前に私は沖縄の米軍基地内を見学したことがある。
場所を良く覚えていないが、
那覇から遠くない「キャンプ・キンザー」だったと思う。
それは大手旅行代理店JTBの企画だった。
沖縄の異文化に触れることを目的に実施された修学旅行。
生徒たちは、基地内の米兵宅にショートホームステイをした。
半日ホームステイだったと記憶している。
基地内に入ると、まさにそこはアメリカの町そのものだった。
昼食は、ジュークボックスが設置された
ハードロックカフェ風のレストランで
コーラを飲みながら大きなハンバーガーとポテトを食した。
何名かの生徒たちは、
ホストファミリーと基地内のボーリング場でゲームを楽しんでいた。
(無料だったような・・)
米軍の戦闘機を見学したり、
米兵住宅でゆったりとやわらかめのソファーに座り、
ポップコーンを食べながら映画を見ているという、
まさにカウチポテト体験をしていた生徒もいた。
私が最も印象に残っていることは、基地内の住居だった。
住居は、日本の言葉で言えばいわゆる「マンション」だった。
海に面している住居は、
何の障害物も無く明るく開放的な窓からは広大が沖縄の海が見えた。
構造全てがアメリカ仕様でもあった。
玄関ドアは、日本のドアよりもかなり大きく厚い鉄製であり、
防御扉といっても過言でないようなものだった。
ドアは、スペースの確保を目的とした日本のドアのように
来客者が引くものではなく、来客者が内側に押すタイプ。
身を守るためにウチ開きであることもとても印象的だった。
物事について深く考えたり、
物事について疑問を感じたりする今の私であれば、
当時の旅行計画について異議を申し立てたて、反対したかもしれない。
しかし、当時の私は基地内を見学し、
修学旅行の行程の一部として
米兵宅にホームステイをすることに何の疑問も持たなかった。
僅か一回で終わってしまった企画ではあるが、
私たちが暮らしている空間とは別世界であったことは間違いない。
そこはまさにアメリカだった。
未だに私の記憶に鮮明に残っている引率体験である。