先日、アンソニー・ギデンズの『モダニティーと自己アイデンティティ』を読んだ。
東日本大震災の福島原発事故の記者会見で多用された「想定外」という原子力の専門家たちから発せられる責任逃れの言葉が強く記憶に残っていた。
ゆえに次の記載はまるで今回の事件のことを見通していたかのよう思える記述であった。
「原子炉事故のリスク推定によく使われる手法は、故障系統図をデザインすることである。起こりうる原子炉の障害につながるすべての既知の道筋を挙げ、これらの道筋に通じるありそうな道筋を特定していくことで、欠陥の系図が作成される。最終結果は、建前としては、かなり正確にリスクを特定しているとされる。この方法は原子炉の安全性の研究において、米国とヨーロッパのいくつかの国で使われてきた。しかし、これは様々な不測の要因を残すものである。人間のエラーや破壊工作のリスクについて信頼に足る推測をすることは不可能である」
「コウナゴ」、「ほうれん草」、「ブロッコリー」、「牛乳」など
出荷制限の対象が広がっている。
ペットボトル入りの「水」も一時期、店頭から姿を消していた。
放射能の影響がどこまで及ぶのか、素人の私にはまったく分からない。
私に気付くことは
わざと専門的に言葉を使い分けて
一般の我々にはできるだけ分からないように表現しているということである。
建物は「建屋」であり、放出は「ベント」である。
一般庶民の我々には情報が少なく、
また情報そのものが難解である。
下記の本文からの抜書きも印象的なモノである。
それは、まさに今現在、日本で起こりえる現象だからである。
「ある日私たちは水銀が危険だと聞き、ツナ缶を棚から急いで投げ捨てようとする。次の日には避けなければいけない食べ物はバターかもしれない。・・それから私たちは壁から鉛を含むペンキをこすり落とさなくてはならない。今日はお気に入りの洗剤のリン酸塩に危険が潜み、明日は、二、三年前には数百万人を飢えと病気から救うものと讃えられていた殺虫剤が非難される。死、狂気、そしてーある意味ではそれよりさらに恐ろしいーガンの脅威が、私たちが食べたり触れたりするもの全てに潜んでいるのである」
それをテレビが報道するのでますます消費者は冷静な行動をとれなくなってしまうだろう。計画停電回避の為に節電を行なっている業界を番組紹介していたテレビ局自体は節電しないのだろうか?