芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

ガチャポン

2008-02-27 22:36:42 | Weblog
ガチャピンではない。ガチャポンにとっての家とは何だろう?100円入れて出てくるあのガチャポンを例に考えてみることにした。玩具が入っている透明のカプセルだろうか?、それともコインの投入口とハンドルの付いたガチャポンが詰まっている販売機だろうか?、それとも多くのゲームが置かれたゲームセンターそのものだろうか?
 どれも正答のようで、「ガチャンポンの家とはなにか?」と判断するには迷ってしまう。それは、自分自身が独りになって孤独にいることが最も快適であるという経験則に基いて、それで ガチャンポンの気持ちになって考えると、あの透明の円形カプセルこそガチャポンの家ではないだろうかと私は思う。
そのように考えた理由は、中野収のカプセル人間という造語だ。彼は当時の若者の特徴を捉えカプセル人間という言葉をつかった。
 帰宅しても自分の部屋に閉じこもってしまう若者やウオークマンを聞きながら自分の世界にコモってしまう現象をとらえてカプセル人間という言葉で表現したのである。
 80年代からのそのような若者の特徴は、老若男女にも広がり拡大。そしてその現象は現在も継続中である。 
 いや90年代に爆発的に普及した携帯電話により尚一層カプセルに入ったままになっている傾向は強まっていることは間違いない。
 いつでも、何処でもというユビキタスの時代。
 そのような人々にとっては、「家に帰る」或いは「帰る家がある」という言葉は何かしっくりこない。家とはカプセルのことであるならば、現在のカプセルは自宅の自室から携帯可能なのである。いつでもどこでも携行し、常にスタンバイ。常に籠もることが可能なのだ。もちろん、カプセルに入ったからといって無人島にいる訳ではない。いつでも寂しくなればケータイで繋がることで他者と繋がることができるのである。
 透明なカプセルは敵からも身を守ってくれる。シールドの役割をしているのだ。狭くて快適なカプセルは、形を変えて商品化され続けている。カプセルホテル、日焼けマシン、高濃度の酸素で疲労回復を図るカプセル。
 透明で快適なカプセルだが欠点もある。気づいた時には、酸欠で中に入っている人間の命が奪われるかもしれない。または、快適であると安住しているとカプセルに入ったままコロコロと回転しながら販売機の出口に押し出されるのかもしれない。危険であっても私の家、帰るウチではないが快適な居場所とは何処だろうか?
 やはり、それは自分が常に携行しているカプセルかもしれない。

・友人のHさんから”元気でサヨ~ナラ 故郷へ帰りますパーティー”の案内状を頂いた。Hさんは大学院で博士後期からの同じゼミの仲間だ。60代で独身。元有名医大で婦長を経験され現在は看護学校で教務責任者をしている方だ。「結婚式もしていない私」がパーティーを開き・・。で始まる文面にビックリだ。結婚式でもない。政治家のパーティーでもない。生前葬でもない。このようなパーティーもあることに驚くとともに、今回参加させて頂き素晴らしいものであると実感できるのであれば自分もいつかはHさんのようにサンシャインでパーティをひらこうかなという気持ちになっている。でも性格的に暗いブブンのある私の場合には、生前葬のようになってしまうかも知れないという不安も生じてしまった。
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水道橋・神保町

2008-02-22 22:41:25 | Weblog
 何十年も前のこと、大学受験を切っ掛けに東京にやって来た。東京にある数ある大学のなかで出来れば避けたかったのは都心にある大学だ。田舎者の私には、神保町周辺にある都市型マンモス大学は受験の対象には当時なかった。生まれ故郷は離れたかったが、それだからといって都心の大学には通学したくないというのが本音だった。
 そんな都市型大学を避けていた私だが、なぜか多摩地区の大学を卒業後は水道橋・神保町周辺の大学や専門学校とは縁が深い。
 仕事を持ちながらの学びであるのでまさに今風に言えば「ケイコとマナブ」だ。仕事が終わった後、特に夜の講座を利用して学んできた。
 大原簿記学校では、国家試験の取得を目指し、コンピュータのプログラムを学んだ。コボルという言語で構成されたある程度のコンピュータプログラムは理解できるが、そこで学んだのは自分にはコンピュータのプログラマーとしての素養がないということだ。
 また、日本大学では外国語の教員免許状取得の為にレポートを書き、単位習得試験を受けるために何度もかよった。そして水道橋の校舎でも単位習得を目的に夜間の一定期間や夏のお盆休み期間を利用して、講義と試験を受けた。日大で学んで再確認したことは私は英文学には興味がないということだ。後にも先にも英文学を原書で読んだのはあの時だけだ。英語の勉強としては、高田の馬場にあるトフルゼミナールでも学んだことはここに追記しておく。日大通信にはあまりよい思い出がない(科目習得試験を受けたのに一科目受けていない扱いにされてしまった。受験後、答案が紛失したようだ。)が、私が今のこの仕事をして食べていけるのも日大のおかげだ。それには感謝しなくてはいけないと思っている。また、後の大学院で社会学を学ぶきっかけになったのは、当時の学びがあったからであろう。
 そんな、水道橋との縁であるが夜間の授業の休み時間を利用してよく食事をした場所がある。それは、「いもや」だ。水道橋・神保町周辺には数多くの「いもや」がある。その殆どはてんぷらやであるが、日大の側はとんかつの「いもや」だ。今日も、論文提出に神保町にいった際に「いもや」に思わず寄ってしまった。すごいボリュームのキャベツ、そして揚げたてのとんかつに蜆の赤だし味噌汁。そして最も特徴的なのは、カウンター席しかない店内のどの客も何も語らず無言でとんかつを食していることだ。昼時とあって店内にはカウンターに座るために待っている客が列をなしていて、その列は店外まで続いていた。食べ物でも、その当時を思い出すメディアになることを痛感した。
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念には念を。

2008-02-15 18:48:57 | Weblog
ヨウセイ、いや羊水(ようすい)が35歳になると腐っていると倖田來未が発言したことで、世間の批判を浴びている。CMの打ち切り、新曲のプロモーションができない等、所属の「エイベックス」初め関連する多くの企業にとっては大打撃であるし、今後損害賠償問題が発生するかもしれない。
今回の問題で悪かったのは誰だろうか?
私は倖田來未ではないと思う。10代の頃からずっと歌一筋できた女性に場をわきまえた発言を求めるのは酷な気がする。失言をしても、録画や録音などは、徹底してそれらを問題ないように編集しなおせばまったく問題ないはずである。たぶん、多くの編集者は有名人の過激な発言を問題になる前にカットしているはずだ。
つまり、今回最も悪かったのは問題放送をそのまま流したニッポン放送である。メディアは、倖田ではなくニッポン放送の責任を追及すべきではないだろうか。民放の身内の失態ゆえにその追求が甘くなっているのかもしれない。それどころか、ラジオで放送された問題がインターネットの2チャンネルで再燃化されたといって、それを無視できず犯人としては最も叩き易い倖田にメディアの攻撃の先が向かったとしか思えない。
 さらに悪いことには、倖田の謝罪会見をフジテレビのある番組に限定したことである。それでは、誰が考えても不公平であるし当初の問題よりも謝罪のやり方に対しての不満がメディアに残ってしまうのではないだろうか。エイベックスという会社は、歌手のプロモーションという販売促進活動は得意としているようであるが、所謂一般企業に設置されている”広報”が機能していないことを痛感する。リスクに如何に備えるか?そしてそれにどのように対応するか?で企業価値が評価されかねないことを再検討してほしい。
 最近の歌番組の司会者たちはダウンタウン、タモリ、そしてトンネルズの石橋とみなお笑い芸人だ。それは、歌番組でトークが交わされているのではなく、トーク番組の中に歌が入っているという構成である。売れている歌手は少ないし、音楽番組だけで番組を作り上げることはできないのであろう。たしかにそれらの番組内のトークは面白い。歌手の持っているイメージを芸人がトークをしながら弄っていく。ちょっとした本音やポロット出てしまう失言がまた面白いのだろう。もちろん、視聴者もそれを楽しんでいるのである。それらへの番組に出演することで、歌手たちのトークの基準も自然に過激になっているのかもしれないし、感覚が麻痺しているのかもしれない。
 人の噂も75日。倖田さんはメディアからは距離をとりじっくりと充電したほう がよいのではないでしょうか。自然に問題は風化しますよ。さらなる別の問題が 現場で起きるのですから。
 
 追記
・その他(1)
 "TAKAKO"からメールが来ました。ミッキーの電話機を覚えていたことに対しての感謝と驚き等です。メールの書き出しは勿論○○クンでした。
 浜松にはキャプテンサンタは無いそうです。お詫びします。
 先輩のメルアドを聞かれました。今、依頼調査中です。
 その他(2)
 子どもこと投稿論文への査読結果が昨日届きました。掲載決定です。
 ヤッター、ヤッター、ヤッターマン!第一次審査で、大幅な修正をすれば掲載可 能という返答を頂き、再提出。さらに第二次審査でオーケーは出ましたが、まだ 修正をするように求められています。最終提出は2月22日(金)。もっと簡単に 考えていたのに驚きです。大学の紀要論文(査読論文)しか経験したことがなかったので甘かったです。査読って本当に厳しいですね。まだ、まだ忙しい日々が続きそうです。

 


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中学入試

2008-02-08 22:45:55 | Weblog
・2月1日から始まった東京の私立中学入試も、ほぼ終息を迎えようとしている。毎年、生徒の数は減少しているのに中学受験者は増えているという。受験だけは不景気にあまり関係なさそうである。
・もっとも中堅より下にランクされた学校は、少しでも優秀な子供たちを確保するために、3年間あるいは6年間に及ぶ奨学金を支給しているらしい。もちろん、今までは公立の中学に進学させていた普通の家庭もそれらの奨学金をあてにして子供たちに受験させているようだ。さらに東京では、都立の進学高と言われている多くの高校が付属中学を併設していることも受験熱に拍車をかけているのであろう。
・しかし、殆どの受験生にとってお金の心配は要らないようである。私立中学では、修学旅行も海外修学旅行は当然のように実施している学校が多い。また、それを当て込んで旅行代理店も私立学校専門部隊をおいていることも実態である。入学した場合は公表されている金額の3倍位のお金がかかることを覚悟しておいたほうがよいのかもしれない。
・しかしながら金銭的な心配をしながら私立中に進ませる保護者は殆どいない。なぜならば一人の子供に対して共働きの両親そして、両家の祖父母からの援助のである。場合によっては、受験生にとっての未婚の叔父や叔母も金銭的な援助をしているらしい。
・私の子供も私学に通わせているが今となっては後悔している。まったく学習していないし、ガムシャラに目標に向かって努力する姿勢がまったく見えないからである。商業主義に乗せられて、今塾に行かないと荒れた公立中にいくはめになりますよ!といった脅迫観念に負けてしまったと反省している。中学受験塾は、年間80万円の授業料。小学3年生から通塾するのが普通だそうだ。自らの力で勉強し、道を自ら切り開いていくように高校受験、大学受験を経験させたほうがよかったのではとも思っている。
・だが、私学に期待して入学させている保護者の気持ちをぜひ学校関係者にはわかってほしい。かつて東京大学の授業は全て英語で行われていた時代があった。それに対抗して日本語で講義をすることをうりにして受験生を集めたのが早稲田だ。今、東大では日本語での講義が殆どであると思うが、早稲田はそれに対抗して英語だけで講義をする学部を設置している。私学には私学の独自性がある。
子供ながらに大変な競争を勝ち抜いて合格する受験生には、そのまま育っていってほしい。切に望むのである。
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宿題

2008-02-02 08:19:00 | Weblog
1月末に以前紹介したナマカ達と中野で共同プロジェクトについての打ち合わせを行なった。大学で教鞭をとっている者、デパートで一年以上先の戦略について考えている者、ミュージシャン、院生など多才なメンバーとの会合であった。会議終了後は、頭に爽快感が満ち溢れている気分になれる。この感覚を閉ざすことなく、継続していくつもりである。
ナマカ達との約束。2月中に2万文字の作品完成。2万といえば大学の学部の卒論程度の量である。ナマカ達は私の業務の多忙さ心配してくれたが、何とかやってみるつもりである。料理であれば、食材はそろえたので後はそれを如何に料理していくかだ。しかも、コース料理に!やるしかありません。ということで今回はこれぐらいの書き込みにして作品に着手します。まだ、一文字も書いていないので・・・。
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