芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

ライブハウス文化論

2008-05-26 22:36:21 | Weblog
 宮入さんはTKU渡辺ゼミで共に学ぶ同輩だ。「渡辺先生」と誰に対しても私は言うが、院生同士の会話で宮入さんはミュージシャンぽく「潤さん」と渡辺先生を呼ぶ。そんなクールでニートなミュージシャンであり、研究者の彼が書いた本が「ライブハウス文化論」(青弓社)だ。
 読み始める前に私はまず、著者略歴をみてから本を読み始める。不思議なことに著者の紹介には都内の大学とだけ書かれており大学名が記されていない。「大学に対して余程いやなおもいをしているのか?仕事の関係で大学名を出すことを躊躇したのか?」を気にしながらこの本を読み進めた。
 作詞も手がけているだけに書き出しの文章のすばらしさに感動。学術図書、専門書ではないような書き出しである。
「ライブハウスについて語る前に、わたし自身のことを少しだけ話しておこう。ミュージシャンとしての「僕」のことを。」
「僕にとってライブハウスは、憧れの「約束された場所」だったー少なくとも、当時の僕にとっては。」
 この分野の論文を初めて読む私にとっては、特に全貌の書かれている一章が新鮮でよかった。へえ~。へえ~の連続。
 コロンビアレコード経営のエッグマン、セゾンのクアトロ、そして不動産のケンコーポレーションのShibuya-O系列のライブハウスや、チャージ、ノルマ、チャージバック等は現場にいるミュージシャンならではの情報の提供と指摘であった。
 音楽を演奏する「目的」から利潤をあげるための「手段」として利用されたライブハウス。対抗文化だったはずのフォークが商業主義に組み込まれ、ニューミュージックへと変質してしまったことは、カルチュラルスタディーズの歩みとも一致する。
 今後、ライブハウスやポピュラーミュージックについての論文作成を考えている学生諸君や研究者にとっては必読の書である。
 ライブハウスに一度でも行ったことのある読者の方が、この本に書かれている内容をより理解できるに違いない。さらに、筆者である宮入さんのミュージシャンとしてのパフォーマンスを生でみることでライブハウスで活躍するミュージシャンを身近に感じて理解できるはずである。
取りあえず、セブンイレブンの書籍販売サイトのご紹介。
ベンチャラは言いません。本当に良い本だと思います。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=32073261

追伸:先日、「焼酎」で検索したら私のブログらしきものを見つけたという反応が旧同僚からあった。ビックリである。研究者として一級の専門性をもった国文学を専門にする先生に見られていると思うと一瞬タイプする手が止まったが、気にしてもしょうがない。ありのまま(のはず)の自分としてこのブログを書くしかないですね。
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ベルリン・天使の詩

2008-05-21 22:37:55 | Weblog
この映画を見る切っ掛けは、渡辺先生のアドバイスからだ。
火曜日の夜に行われているゼミで孤独について討論している際に孤独を理解するうえで参考になるので見ることを推薦していただいた映画だ。
この映画はハリウッド映画のように観客に対して肩肘はらない娯楽を提供するものではない。ベルリンの街並みを舞台に静かな流れのなか、意味深い語りで進行していく。
観客各自に「孤独」や「生きること」を考えさせる映画だ。
 天使というとディズニーの影響からか、可愛い白いレースのワンピースに身を包んだ少女や若くて美しい女性が連想される。
しかしながら、この作品に出てくる天使ダミエルは黒いロングコートに身を包んだ中年男性である。街中にある図書館内を彷徨き回るのも多くの男性の天使たちだ。モノクロの世界に暮らす天使たち。人間とは異なり永遠の命を持っている天使たち。天使ダミエルは永遠の霊であり、人間に対して声をきくだけである。
自殺を試みようとしている青年の肩をおしてあげることもできる。死にかかっている人の命も復活できるのである。
しかし、仮に命をすくってあげてもその行為や存在を気づかれることはない。
 サーカスのブランコのりの女性はマリオン。彼女には甘える相手もいない。客の入りの悪いサーカスは今夜を最後に閉鎖される寂しさ。天使のダミエルも人間のマリオンも孤独。ダミエルはマリオンに恋をしたが気づかれない寂しさと孤独。
 人間に恋をすると天使は死ぬというのにダミエルは人間になった。永遠の命を捨てて。
 そこからカラーの世界にフィルムは変わる。怪我をした頭から血を流したダニエルは自分の血を確認。手に付いた血を口に運び、その臭いや味をも確認している。そして通行人にベルリンの壁に塗られた絵画に使用されている色を確認する。赤、黄、青・・。色を認識する喜びをかみ締めながら。
 その後、コーヒースタンドで売られているコーヒーを美味しそうに飲むダニエル。当然のようにめぐり合うダニエルとマリオン。
 最後に、一本のロープを登り演技をするマリオン。そしてそのロープを下で支えるダニエル。
 その瞬間の二人には「孤独」は存在していない。
 「生きることの肯定」、「生きることの悲しさやすばらしさ」を感じさせる、また孤独とは一方向からのみ見てはいけない。そんなことを教えてくれる映画であった。
 
 追記:大学のゼミの仲間であり、高円寺のライブハウスを中心に活動しているミュージシャン宮入恭平さんが青弓社から『ライブハウス文化論』を出版されました。私の手元にも本日現物が届きました。近日中に書評書きます。
http://homepage.mac.com/kyohei_miyairi/
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クイズ番組

2008-05-14 22:38:55 | Weblog
 テレビ番組をあまり見ない私だが、最近、たまに見るテレビ番組でとても気になることがある。それは、クイズ番組の多さだ。
 土曜日 クイズ!ガリベン(テレビ朝日)
 日曜日 熱血!平成教育委員会(フジテレビ)
 月曜日 Qさま!!(テレビ朝日)
 火曜日 ザ・クイズマン(テレビ朝日)
 水曜日 クイズヘキサゴンⅡ(フジテレビ)、クイズ雑学王(テレビ朝日)
 木曜日 全国一斉!日本人テスト(フジテレビ)
 かろうじて金曜日にのゴールデンタイムには、クイズ番組が無いようである。

 私は声を大にして言いたい。番組制作における「安・近・短」はいい加減にやめてほしいと。
 つまり、「安」はお金をかけないで、「近」はできるだけ近場で。
 できればテレビ局のスタジオで。
 そして「短」はできるだけ短時間で製作し、長い時間をかけないということだ。 私は、「安・近・短」の象徴がクイズ番組だと思う。その政策手法は東京ローカルと揶揄されるテレビ東京がもっとも得意としていたテレビ番組制作手法ではなかっただろうか。「大食い選手権」、「食べ放題の店」、「おいしいラーメン店」、「寿司」、そして「関東周辺の温泉」。
 それらは番組なのか?それとも店や温泉旅館のコマーシャルなのか?分からない位に制作費がかけられていないことが見え見えの番組である。テレビ東京だけならまだ我慢できるが、在京キー局がこぞって同じようなクイズ番組を制作することはどうしても納得できない。食べ物番組や旅番組の延長線上にあるのが、まさしく「クイズ番組」なのではないだろうか。
 リハーサルには時間もかからない。クイズ回答者は、どの局を選択してもお笑い芸人を中心とするイツモノ面々。問題も類似問題だらけ。そして何より問題なのは、視聴者に対してこの程度の番組を提供しておけば満足するであろうと言う慢心が見え隠れしている点だ。
 学力や知識が豊富な視聴者をターゲットとしたQさまの回答者には高学歴の回答者を揃え、大学受験における知識確認を行っているようだ。回答者の紹介では学歴も表記されているので、答えられなくても視聴者は「東大を出ているのに・・」と感じ優越感に浸るであろうし、答えられても「さすが東大・・」視聴者も答えがわかることで東大卒と同じであると言うここでも安心感や優越感が生じるのではないか。
 対して「クイズヘキサゴン」では、おバカキャラの芸能人を登場させ、笑いのネタとしている。所謂、普通クイズ番組を見ない層の視聴者も取り組んでいると思われる。もっとも、視聴者よりもバカな芸能人を笑いものにして、ここでも視聴者に優越感を与えているのかもしれない。
 やはりどう考えても安易な番組作りである。視聴者の学力を階層化してターゲッティングしていることが見え隠れすることはやはり納得できない。
 こんな安易なテレビ番組作りをしていると社会評論家の大宅壮一が言ったように日本国民は一億総白痴化(いちおくそうはくちか)してしまうのかもしれない。あるいは電波がデジタル化される2011年以降に在京キー局の製作番組であっても完全に視聴者から見放されてしまうのかもしれない。

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JUNKO

2008-05-06 18:27:27 | Weblog
 TAKAKOというタイトルで学生時代の同期生についてかつて書いたことを覚えている読者もいることだろう。今回は、その第二弾。JUNKOである。
 JUNKOは、我々の一年先輩である。もちろんこのように名前で呼ぶことなど無く、20数年前からずっと苗字に○○さんと付けて呼ばせていただいている。我々は「珠算研究会」という非常にマイナーな、そしてまじめなサークルに所属していた。大学の学生会公認サークルということで部室も貸与されていた。毎年の活動方針、予算獲得折衝、珠算大会実施に伴い、東京商工会議所や日本経済新聞社から後援していただくための後援依頼など、大学のサークルというよりは企業におけるインターンシップを体験していたという表現がぴったりである。
 そんな珠算研究会でJUNKOは盲人指導部の責任者をしていた。西八王子にある都立八王子盲学校に放課後、週一回、そろばん指導にいっていたのである。その責任者がJUNKOである。長身、アフロヘアーに、カーペンター風のオーバーオールのジーンズ。その姿はいつも笑福亭鶴瓶の若かりし時の姿そのままだった。盲学校へ行く途中であろうか?彼女が発した一言は、印象的で今でも記憶に残っている。それは、駐車場を指差しながら「ここも月極(げっきょく)だわ」「このチェーン店大きいのね」もちろん、受けをねらった訳ではなく、本当にそのように思っての発話故に面白く、いつまでも記憶に残っているのであろう。
 そんなJUNKOはじめKEIKOやクラブの同窓に会えることを私はとても心待ちにしていた。タイムマシンは実在しない。ドラえモンも同様である。よって過去に戻ることは出来ない。自分の記憶にある25年前の私と25年ぶりにあった彼らのイメージの中にある私をぜひ比べてみたかった。過去の自分について関係者にインタヴューすることで過去の自分自身を探りたかった。それについて質問を投げかけてみたのが、こちらの求めている返答ではなかった気がする。自分でもどんな返答を求めていたのかはわからないが。自分っていったいなんだろうか?自分らしさってなんだろうか?25年前の私と比べることでその手がかりがあるかもしれないと期待してもいた。
 しかしながら一旦酒を飲みだすと珠算ならぬ酒乱研究会と揶揄される位に酒の強い皆。タイムマシンもアウトオブオーダーだ。当初の自分探しどころか家に辿りつくのもやっとになるほど久しぶりに大声を出し、大酒を飲んだ一日となった。
 
 
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