吉見俊哉さんの「メディアとしての電話」の書評を大学院に入ったばかりのころ書いた。尊敬する渡辺潤(juwat@tku.ac.jp)先生から出された課題だったのでなにが何でも期日を守り提出したことを覚えているhttp://www.tku.ac.jp/~juwat/seminar5-1.htmlとても懐かしい。電話については、時代を映し出す鏡であるとつくづく思う。先日職場の同僚と電話についての話になった。ダイヤル式の黒電話世代の私には本当に懐かしい。当時の黒電話は本当に貴重品であり、家財としても貴重品であった。その当時は、額に入った賞状は、壁にかけられたまま三角形で紫色をした賞状座布団の上に置かれていた。貴重品である電話も額縁同様に白いレースの上に置かれていた。それは電話本体の黒色を引き立てるとともにその貴重性を家族以外の他者にも示していた。だって昭和40年代の小学校の緊急連絡先は(呼)の後に電話番号という記載、つまり殆んどの家庭には電話がなく、電話のある家庭に電話がかかってきて呼び出していたからである。そのレースは他者への気遣いかもしれない。直接は話者同士を結ぶ役割を電話はするが、当時の電話は間接的にご近所同士をつなぐメディアであったかもしれない。また、電話の受話器の話口、口を当てる部分には何故だかアタッチメント式の芳香剤が付けられていた。その色調は白いソーメンの中に何本かピンクや淡い空色をしたソーメンが入っているような色遣いであり、形はウズ救命丸や救心のような銀色の小さな球形であった。白いレース同様に芳香剤も、呼び出しをした際の他者への配慮かもしれない。
今では、その固定電話のベルがなっても発信者を確認できなければ電話にでないことも多くなってきている。では、現在の電話の主役に躍り出た携帯電話はどうだろうか。さすがに他者の呼び出しには用いないが、携帯電話所有者の趣味や人柄を表す携帯ストラップ、あるいはヒカリモノでこてこてにデコレーションが目に付く。私は思うのである、メディア論でいうところの電車や車が足の延長であり、耳の延長がラジオ、目の延長がテレビならば携帯電話は耳の延長あり、眼の延長でもある。また、手の延長でもあるのだ。だからこそ、ネイルアートと同様のアートを携帯電話にも描こうとするのではないだろうか。
今では、その固定電話のベルがなっても発信者を確認できなければ電話にでないことも多くなってきている。では、現在の電話の主役に躍り出た携帯電話はどうだろうか。さすがに他者の呼び出しには用いないが、携帯電話所有者の趣味や人柄を表す携帯ストラップ、あるいはヒカリモノでこてこてにデコレーションが目に付く。私は思うのである、メディア論でいうところの電車や車が足の延長であり、耳の延長がラジオ、目の延長がテレビならば携帯電話は耳の延長あり、眼の延長でもある。また、手の延長でもあるのだ。だからこそ、ネイルアートと同様のアートを携帯電話にも描こうとするのではないだろうか。