先日、渋谷の迷宮に入り込んでしまった昭和の高齢者ことオイラは、それを当てつけるわけではないが、次々進行している巨大再開発にひとこと言いたくなった。オイラにとって1970年代の渋谷は、邪魔な髪の毛をかき分けながら青春を謳歌した若者の街でもあった。そこには、洗練された映画館がありミュージアムがありパルコや喫茶店があった。しかしこの再開発は、少数派となった若者を照準するのではなく、林立する高層ビルのオフィスをまたたくまに完売させ、高級な商店では列をなす中間層消費者を獲得しつつある。つまり、渋谷は金のない若者の街から金を吸収する商業・ビジネス街へと脱皮しようとしているのだ。格差の亀裂がますます深まっていく。
建物に入ると海中庭園にでもいるような錯覚をもたらす高い吹き抜けにあるエスカレーターはいよいよ幻想と欲望の世界へと心を奪っていく。目の前にきらめく商品が並べば欲しくなり、目の前に高級な食品が見事に配置されれば脳髄はよだれを命令する。渋谷の再開発とは欲望の拡大再開発に本質がある。これだけの資本投下が地方や若い夫婦に分配されれば慎ましい人々の暮しもより安定的に豊かになるはずだ。
ここから空を観ても深呼吸する気になれない。空は狭いからだ。高層ビルに高層ビルの影を落としている。高層ならば陽当たりがいいわけでもない。この頃、ガラス張りの「スクランブルスクエア」の屋上が紹介されて、密集した東京を一望するのを「きれいだ」とマスメディアは放映する。緑を探すのが苦労するのにそれは報道しないというおべんちゃらテレビ局が多い。ここでは、土地も地下も建物も空間もそして人間もすべて「市場」化されてしまう。
洗練された店構えやディスプレーや商品には感動もする。アーティストの活躍が伝わってくる。しかし結局すべては収益というものに収斂される。ここには「人間力」というものを育み、発揮する場というものはどこにあるのだろうか。地球的規模の課題に挑戦する家具大手「イケア」のような社会的・地域的課題を解決していくスケールのある企業はどこにあるのだろうか。「化石賞」を拝命した日本としては、まさにこういう場こそ起死回生のチャンスではないか。アフガンで亡くなった中村哲さんの崇高な意思と行動を学ぶ場を共存できないものだろうか。