山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

杉田俊介『長渕剛論』を読む

2020-02-15 22:14:58 | 読書

 『宮崎駿論』を書いた杉田俊介氏が『長渕剛論』(毎日新聞出版、2016.4.)を書いてあるのを知って、ついつい読んでしまった。彼の曲のCDを車に取り込んでよくドライブしたものだった。彼が故郷を去り、東京に夢を載せようとするがやはり現実に直面して苦闘する煩悶が随所に痛みとなる。その心の揺れ・心情が歌の魅力だった。

 東日本大震災があったときの暮れ、紅白歌合戦の番組のさなか被災地から祈りの歌をライブした彼の歌とメッセージは感動的だった。すべて被災地で鎮魂の歌をライブするぐらいのNHKでほしかった。その意味で、長渕剛の民衆と共にある魂を高らかに示した。

        

 しかし、野外での彼の周りのファンが持つ日の丸の波には違和感を禁じ得なかった。それは著者も同じ思いだった。それは長渕剛がもつ愛国心とナショナリズムとの微妙な矛盾がマッチョな肉体から醸し出されていることが心配だった。

             

 個人的には、長渕剛の作詞の流れと彼の心身の出来事とを編年的に分析してほしかったが、作者はそういうことより長渕剛の「男らしさ」・「弱さ」・「怒り」などその背負ったものと作者の生き方との向き合い方から格闘していったのだった。彼のアクの強いメッセージソングのなかで、自分の生い立ちを哀感を込めて歌った「ふるさと」・「鶴になった父ちゃん」が心を射る。ここが彼のルーツであるのを感じる。

        

  著者に共感したのは、長渕剛の歌には民衆の悲哀を受けとめようとする「優しさ」があり、言われなき「差別」や権力乱用への「怒り」・「ふざけんじゃねえ」があり、それはまさに「フォークソング」の原点が貫かれている、という指摘だ。

 ややもすると、ニューミュージック以降、歌の流れからは、生活感を削ぎ落し、民衆の寄る辺ない混沌・慟哭を削除してしまった。その結果、音楽界の時代への忖度と商業化がはびこる現在がある。

 その意味で、真っ向勝負で民衆と寄り添う姿勢を貫く長渕剛の魂は、ひとり一人の心に生きる希望を灯している植林作業のように思えた。

 

コメント
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