きょうは一日中雨だった。癌に侵された畏友に会うためにゆるりと国道を走る。その途中の景色は過疎地の魅力を遺憾なく発揮する水墨画となった。横にたなびく霧は旨みを醸成する山のお茶栽培の高さと一致する。
しばらく雨が降っていなかったので川の水量は少なかった。それは同時に、台風や大雨で上流から流されてきた土砂が川床をかさ上げしている現状にある。その土砂を浚渫する重機はもう山の河川の風景にすっかりなじんでしまった。これをしないと自然災害も多発する。
中学校も山と川に挟まれ、まさに山紫水明の絵画に包囲されている。こんな環境のなかに育った子どもたちは自然と共に生きる人間力が育まれていく。都会のぎすぎすした人間関係に汚染された子どもやおとなはここにはいない。
往年は山で生業が成立するほどに、山で暮らしができていたのに、今は山の中では生活できない。急峻な山の中にも大邸宅があったのに今では空き家と崩壊家屋しか見当たらない。さらには、樹種が杉・檜しか植えていないので動植物の行き場がなくなり森の多様性も崩れてしまった。森は経済価値からしかみない市場となってしまった。日本の針路を描く羅針盤は景気浮揚にすべてが動員され、経済効率がないものは価値ないものとされた。人間も経済効率を生まない人間は役立たないものとされた。
その意味で、この山紫水明の過疎地こそ人間を再生し、生きる多様性のヒントを見せてくれる。山野を潤すこのたなびく雲は過疎を生きる民衆の心を清廉にしてくれる。