久々に行った図書館で借りた本の一冊は、『「京丸」私考』(発行・春野町教育委員会、編纂・春野町文化財保護審議会、平成9年1月)だった。京丸はすぐ近くの山あいにある地域だが今は人が全く住んでいない。南朝の崩壊とともに御醍醐天皇の皇子たちが遁走してきた伝説が北遠一帯にあるが、それに関係する末裔が住んでいたのが京丸だという説も紹介されている。
本家の藤原家の家宝には、参議・歌人の藤原長親・公清につながる歌集10冊や雲上人の衣装などがあったということから平家落人伝説もある。生業は木の器製作などの「木地屋」をやっていたらしく、それにまつわる伝説も近隣にある。前春野町長の天野安平氏が様々な説を集めていた史料をまとめたものだが、真偽はともかく、春野町いちばんの幻の辺境には違いない。
もう1冊は、『王子製紙気田工場おぼえ書』(発行・紙の博物館、昭和57年7月)だ。従業員だった佐藤秀太郎氏がまとめたものだけに、正確な史実が残されている。渋沢栄一の肝いりで、洋紙の85%、新聞用紙の95%(昭和8年)を占めるほどに成長した王子製紙だが、その礎となったのが天竜川気田地区の工場だった。つまり、日本の洋紙製造の発祥の地が春野町気田だったわけだ。
工場操業にはかなりの困難が描かれていた。当時の明治20年ころの東海道線は磐田が終点で、東京から気田に行くには、手前の袋井駅で降りて、そこから森町・三倉へは人力車しかなく、気田へは徒歩だった。大正半ばには二俣から犬居までは「ガタ馬車」が通るようになった。しかも当時、名古屋から給料などの現金を気田まで運搬するときはピストルをもって護送していたという。
また、大型の機械は天竜川河口沿いの東海道線途中に臨時荷卸場(「池田」)を設置してもらい、そこから船で運搬した(その後は、反対側の「中ノ町」に移転)。船の運搬も既成の船では大型機械を運搬できず独自に船を造船したり、川中に機械を落したりの逸話も残っている。欧米に何度も学びに行ったリーダーの大川平八郎も独自に機械を改良するなど、悪戦苦闘の幕開けとなった。
そんな中、中山間地であった小さな集落に「まち」が急速に形成されたが、現在の気田中心街はシャッター通りになっているのが実情だ。そんな山あいの盛衰の歴史が所々に刻印されているが、気田地区はそれでも春野町の現状を表現しているへそでもある。