山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

草むらからトウガンを発見

2020-11-10 21:45:28 | 野菜・果樹

 草刈に追われる日々だ。イヌタデ群落は赤い種をまき散らそうと勢力拡大にやっきだ。「そうはさせじ」と、赤い実を狙って刈込にかける。そんなとき、忘れていた「トウガン」(ウリ科)を草むらで発見。どこに植えたかさえ忘れるほどの無責任農業の証明になるが、三個もあった。小さいのは草刈機の傷がついてしまった。皮だけのものは動物が食べてしまったもののようだ。目立つところに実をつけたものは小動物の目標になってしまう。その意味で、草むらに疎開したのは正解だったのだ。

 毎朝飲んでいる「野菜ジュース」にいよいよ冬瓜が参入した。なにしろ、水分が95%もある。また、鍋にも登場した。低カロリーだがビタミンCなどの栄養もある。グータラで申しわけなかったが、ありがたくいただく。

 

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原木シイタケの旨み

2020-11-09 19:43:28 | 食彩・山菜・きのこ

 昨年の春、隣の集落のシイタケ農家からいただいたほだ木にシイタケ菌を打ち込んであった。そこに、今年の秋シイタケの赤ちゃんがポコポコ育ってきた。1年未満でシイタケができるのは想定外だった。

           

 そのうちに、この地域で言う「タンコロ」という直径40cmくらいの根元に最も近いコナラのほだ木にも、しっかりうまそうなシイタケができていた。汗だくでこの重いほだ木を運んでくれたシイタケ農家の心意気に頭が下がる。

   

 さっそく、和宮様直伝の手料理を賞味することになった。ひと口食べるごとに、「旨いー」の連発だった。市販の薄っぺらな菌床シイタケは問題外。肉厚の原木シイタケの旨みと食感が口内を輻射させる。

 むかしは、原木にナタで傷つけ菌が付着するのを待って、自然にできるのを待っていたという。それが、昭和17年頃、森産業が「種駒」を発明してから急速に広まっていく。戦後、昭和45年ごろから菌床栽培が始まってそれが今、生産の8~9割を占める。

 急峻な山から原木を伐りだす肉体労働の厳しさと旨みを考えると、原木シイタケはもっと高値になってもいいと思わざるを得ない。したがって、シイタケの販売は菌床か原木かの表示を明確にしてもらいたいものだ。そのことで、山に生きる労働の評価を高めてほしいと痛感する。

   

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ススキヶ原にじゅず玉があった

2020-11-08 22:15:00 | 植物

 隣の耕作放棄地は一面ススキが群生してしまった。それでもその周りを歩いていたらその中になんと「じゅず玉」(イネ科)の群落があった。ふつうじゅず玉は河や湿地に群生していることが多いが、ここは荒れた耕作放棄地だ。実がすでにできていて、白・茶・薄緑と多彩な色が同居している。

           

  このじゅず玉を何とか食べる方法はないものか、と思う。問題は固い殻を割る方法だ。ペンチで割ったらぐじゃぐじゃになりそうだ。ともかく、まずはこれを収穫していろいろ試してみたい。ハト麦の母種だから体には間違いなく薬効が良い。どうやら豆乳のような甘い香ばしさがあり、旨いということだ。

             

 オイラが子供の頃は、じゅず玉は身近な植物だった。これをつないで腕輪にしたり、お手玉の中に入れたりと、遊びの世界に貢献していた。それがいつの間にか影を消していった。しかも、栄養も薬効も申し分ないじゅず玉という宝を邪魔ものにしてきて現在に至る。そういう効率・便利の生き方に一石を投じたいものだ。

 

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そう言えばカローラに乗っていた

2020-11-07 23:24:27 | 自動車・エンブレム

 小雨のきょう、久しぶりに買い出しに出かけたスーパーの駐車場で、見慣れぬフロントロゴの車を発見。最近ではなかなかレアなロゴとは会わないでいたところだった。その車のロゴには「C」が基本らしかったので、これは「カローラ」だろうと見当をつける。          

          

 よく見ると「C」の英字の上に「X」が3個乗っかっている。「X」を乗せるとはデザイン的には冒険だろうが、その意味がよく分からない。

                  

 そう言えば、10年ほど前にはカローラを乗っていた(現在はスズキの軽ワゴン車)が、当時はエンブレムには興味を持っていなかったので想い出せなかった。ようやくにして「C」のなかに1本のラインがあったことがわかってきた。

 それに至るには1955年に販売した「クラウン」が「冠」の意味の高級車だったことを引き継ぎ、1966年には「花冠」を意味する大衆車を生産した意図があったらしい。両者とも頭文字が「C」がつく。(画像は「みんなのカーライフ」webから)

 

                   

 まだ出会っていない上の画像のエンブレムは、「C」の上に五弁の花びらがあるこちらが先に生産したのか、または「X」のほうが先かはわからない。デザインとしては「X」より花のほうが女性にはいいし、花篭のなかにあるような暖かさがある。(画像は「マガジンcarturn」webから)

 カローラは販売開始から現在までトヨタを代表する代表選手だ。国内の販売台数でも車種別でトップを占めてきた有力選手でもある。その意味でも、エンブレムの変遷が洗練されてきたデザインであるのを感じさせる。

     

                 

 

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日本の信仰は山にルーツあり

2020-11-06 21:52:20 | 読書

 ときどきTVで見かけていた山折哲雄氏の『仏教民俗学』(講談社学術文庫、1993.7.)を読んでみた。従来、仏教学と民俗学とはそれぞれの独自に研究されてきたが、現実の生活では融合している実態があり、そこに橋渡しようとしたのが本書である。

   

 欧米やインドの宗教にも詳しい山折氏の幅広い知識が充満する内容だったが、それぞれの章立てはかつて発表したものを寄せ集めたもので、仏教と民俗との接点そのものを解明したものではないのが残念だった。そのため、断片的な内容がそのまま放置されてしまった不満が残った。その意味で、そこを埋める補説があると素人としてはスッキリするというものだ。

                       

 日本の信仰の背後には「山岳」があり、天上の神が降臨する聖地は山であると考えられてきた。したがって、「浄土」はその聖域にあり、「来迎図」のように身近な所にある。しかし、インドの浄土は「西方十万憶土」のかなたにあるという。そこに、日本では土着の山岳宗教と仏教との独自の融合が見られると山折氏は指摘する。

  

 縄文人の暮しの多くは山が拠点となっており、山は食料供給の生命線でもあった。平地は身の危険がともない、洪水などの災害も少なくない。確かに、その伝統は江戸時代にまで活かされ、山には独自のルートと暮らしが成立していた。それが崩壊してきたのは近代に入って間もなくのことであり、それほどに日本人と山とは身近なものだった。

                  

 本書の25本のエッセイのうち、トマスモアと平将門の首についての叙述は、氏の面目躍如のフットワークがあった。時の王・ヘンリー8世の離婚をカソリック信徒のモアが批判したことでモアは処刑され、その首は晒されるが、その後丁重に教会に埋葬される。

 一方、朝廷に反逆した平将門も処刑されたが、怨霊となってその首が徘徊するというところに、日本人らしい感性がみられるという。それぞれの章はエッセイなので内容が大まかすぎるきらいは否めなかったが、身近な宗教的儀礼についてメスを入れた意味は大きい。

 

 

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きょうのキャンバスに描いた歳月

2020-11-05 21:35:05 | ポエム

青春ー 心のマグマは 破壊と創造とを 空に刻む

 

 現実ー ゆらめく欲望と理想は 幾たびもの破砕の反復

 

    

 安住ー 穏やかな時空の自然は 人生を単調に震えさせる

 

                

 快哉ー 青い鳥は飛び去るもの だから 遠くで見る 聞く

 

     

 終焉ー 時間は待ってはくれない 前を歩けるだけでもありがたい。   

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ススキを畑に漉き込む

2020-11-04 21:56:55 | 農作業・野菜

 わが家の隣の道路の先は空き家でほとんど通行は稀だ。そのため、ススキをはじめ雑草が路上に繁茂して通行がむずかしくなっていた。それを近所の誰かが両側のススキを草刈りしてくれた。それでも、路上に倒れたススキがあって歩きにくい。路面が見えない。そこで、そのススキを畑に運んで漉き込むことにする。歩けるようになれば、和宮様も歩行のリハビリになる。

             

 小径から畑までススキの運搬を十回近く往復する。けっこう重い。それを和宮様が畑への漉き込みをかってでる。術後の首ヘルニアが心配だが、慎重に丁寧にやってくれている。やりだすと最後までやらないと気が済まないのが玉に傷の和宮様だ。侍従役のオイラがいつものとおりストッパーとなる。

            

 それぞれの畝には、「夢咲き菜」「玉ねぎ」「ハクサイ」を急ピッチに植えて間もない。昨年は、伐採した長い竹をそのままマルチにして防寒・防風対策とした。今年はとりあえずススキを防寒対策としてみた。様子によっては、やはり竹マルチも追加することも考えている。ビニールの防寒では突風に耐えられないのがこの地域の厳しさだ。

   

 あっという間に、ススキマルチを暗くなる前に完遂できた。周りの囲いはイノシシ対策として初めての作業となってしまった。したがって、ふだんより4倍くらいの労力が必要となった。そこでまずは、竹林への道を草刈機と鋸で拓いてから、支柱の竹を伐採して運搬し竹の枝を取り払うところから始めるからでもある。太い竹は幅が10cm近くもあり長さも10m近くもあるので、かなり重いうえにそれを運びだすだけでも毎回かなり苦戦している。

 アメリカ大統領選挙の開票をどこのTV局も速報中継をやっているが、結果はどうあれマスコミはやり過ぎではないか。むしろ、大統領選挙にかかわりなく日本の針路をいかに描いていくかをそもそも詰めてもらいたいものだ。

     

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夏からずっと咲いてくれている

2020-11-03 21:53:37 | 植物

 夏ごろからずっと咲いてきている花に感謝する。「ミゾソバ」(タデ科)の花は、鮮やかな桃色がコンペイトウみたいなので、「コンペイトウグサ」という別名がある。茎や葉を採って乾燥させたうえで煎じて飲むとリュウマチに良いという薬効もある。

                  

 また、葉の形が「牛の額」に似ていることから、それが別名になっている地域もある。一般的には、蕎麦の花や葉にも似ていることから、「ミゾソバ」の「蕎麦」がつく。「ミゾ」は字の通り田んぼや川の湿地帯に群生しているところから「ミゾ」がつく。実際、わが家の敷地内の水辺のそばに群生していて、そこに光が当たっているような鮮やかさがある。

              

 近所から枝をいただいたアジサイの「墨田の花火」。それを挿し木していたものが昨年あたりから花を着けてくれた。それが11月になっても咲いているという長距離ランナーだ。中央の本当の花はやはり目立たないが、16個ほどもある周りの装飾花が魅力的だ。それも、花弁が八重になっているというサービスぶりだ。

              

 花の茎が長いので、それが「花火」をたとえているらしい。「墨田」がなぜついたかはわからないが、ロマンある名前だ。12月くらいまでは咲いているので、アジサイの概念を変えてくれるヒーローでもある。

              

 わが家のあちこちに雑草のように群落を形成している「ノハラアザミ」も長距離ランナーだ。背丈がどんどん高くなるので場所によっては雑草と一緒に草刈りしてしまうが、生かす方法はないかといつも思う。

              

 春から咲く「ノアザミ」は和宮様お気に入りの花だ。「ノハラアザミ」と見分けがつかないが、和宮様はすぐわかる。花の大きさや色が全然違うと主張するが、オイラにはいま一つ分別つかない。一般的な見分け方には花の下にある「総苞」に粘りがあるのが「ノアザミ」で、粘りがないのが「ノハラアザミ」というが。

 近所では秋の園芸植物が華やかに咲いているが、わが畑の周りにはススキと赤まんまの「イヌタデ」に侵食されている。そういう中で、このミゾソバ・ノハラアザミ・隅田の花火の三銃士には敢闘賞をあげたい、と珍しく当局は意欲的になっている。   

 

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小農・家族農業が立国の礎

2020-11-02 20:45:56 | 読書

 前々から農業に生きる山下惣一さんの発言に注目してきたが、やっと『小農救国論』(創森社、2014.10)にたどりついた。大規模・専業農業はいずれ破たんすることを喝破し、かつての日本の農業は小農・家族農業が支えてきたし、これからもそれを支えるしくみが大切だと著者は強調固辞する。

   

 ロシアの人口の70%が郊外に「ダーチャ」という自給農園を持つ。野菜の77%がこのダーチャで生産されるという。政情が厳しくともそれを潜り抜けてきた庶民の生活の知恵だったのかもしれない。著者はそうした日本農業の再生のヒントを紹介しながら、農業とその関連作業は国民のいのちにかかわる「公益」であって、「農業はもともと儲かるものではない」と断言する。

      

 大規模農業は日本の事情に合わないばかりか、農業と自然とを市場化してしまったことでますますの赤字と不安と人口流出を生み出している。それは林業でも全く同じことが言える。山下さん自身が農業を懸命に従事してきただけにブレない強さがある。

                   

  日本は「経済成長するほど、農業や地方が疲弊してきたのがこれまでの歴史」で、その犠牲の上で都会は流出した地方の労働力を食い物に利潤を得てきた。その結果、人間はモノに支配され欲望を拡張してやまない。たしかに、イギリスの産業革命以来、その流れは本質的にはいまだに変ってはいない。

 そして、畜産業の大規模化による破たんが明らかだが、規模拡大、単作化、コスト低減を勧めてきた。そのことで農業生産の担い手を家族農業から企業農業へと選手交代させ「農業潰し」を邁進してきているのが現在の農政だと警告する。

   

 同時に、「グローバリゼーションになって以降、流れを変えたのは全部現場。生消提携も、農産物直売所もそう、有機農業なんか、国が認めていないのを現場が広げていったわけだから、そういう農家をまわりの消費者が支えれば地域は変わる」と、山下さんは希望の筋道を力説する。

 続けて、「そんな時代を生き抜くには自分の足元を固めること。とにかく自分と家族が食べるものだけは自力で確保することが何よりも重要」という視座を明確にする一方、「成長よりも循環、拡大よりも持続、競争よりも共生。これが日本の農村の論理であり、農業の原点だ」として、「市民皆農の時代」に期待をかける。荒っぽい山下さんの論調だったが、農業を真摯に背負ってきた人だけに基本がぶれない言葉の強さがそこにあった。

  

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キウイフルーツをすべて収穫

2020-11-01 22:01:23 | 野菜・果樹

 気温がずいぶん下がってきたので、急遽キウイフルーツの実を収穫することにする。午前中は和宮様も首のヘルニアの退院後にもかかわらずはりきって参戦、夕方には無事全てを収穫。今年は生り年のようで例年より実が多い。棚下を草刈りしていたのでスムーズに収穫作業も完遂できた。

                

 隣の茶園で伐根作業をしていたAくんにも篭いっぱいお裾分けすることもできた。なにしろ、栄養価は果物の中でもトップクラスで、素人でも無農薬でも十分育つという優れもの。摘果を十分しなかったので小さい実も少なくない。すると、どうしても糖度が下がってしまう。

 世界的にはイタリアが世界一の生産量だが、日本では愛媛県が日本一。ミカン農家が果物輸入による暴落や自然災害などでキウイへと転作している県も少なくない。わが家でこれだけ収穫してもジュースにするとあっという間になくなってしまうのが不思議だ。わが家の健康を支える重要な果実でもある。

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