田舎生活をしていると、時間はふんだんにあり、今日は、20歳のころ愛読していた末川博の「彼の歩んだ道」(冒頭の写真)を読んだ。誰かにあげてしまったが、また読みたくなり、本屋に聞くとすでに絶版、ためしにアマゾンで調べると送料込251円で入手。遊学中のフランスで関東大震災のニュースに接し、その時の体験を書いた箇所、90年前も今も日本人は同じように踏ん張ったんだと思いました。下のような随筆。
末川博(元 立命館大学総長)「彼の歩んだ道」(岩波新書 1965年)p209
関東大震災
大正12年(1923年)八月の末、イギリス、ドイツ、スウェーデン、ノルウェーなどを旅行して、フランスにはいった。パリに着いてから三日目の九月二日の朝、散歩するつもりでホテルを出たとたん、そこに出ている屋台店にならぶ新聞見てびっくりした。どの新聞も第一面に日本のさまざまな写真をのせて最大の活字で「日本の大地震」という見出しをつけているのである。長崎からの簡単な電報がのっているのだが、最初は九州地方以外は全部地震に襲われて日本という国の大半が消え去ったのではないかとさえ思われた。大使館に出かけてきいても、詳しい報道はないというので、要領を得なかったけれども、時がたつにしたがって、箱根山以東が一面の海になっているような報道から東京、横浜を中心とする震災であるという報道にしぼられてきた。通信機関が今日ほどに発達していないうえに、日本の中心がひっくりかえって混乱しているのだから、やむをえなかった次第である。
いづれにしても、たいへんだ、気の毒だというわけで、パリの官公署は、反旗を掲げて弔意を表し、やがてフランスとベルギーでは、公共団体や協会が救援金の募金を始めるというふうに、日本が第一次大戦で連合国として協力したことに対する感謝の意もふくめたと思われる救援活動が広く展開された。ところが、私たち日本人は、地震、雷といったような天災についてはあきらめが早いせいか、この遠いパリから心配してもしようがないと思うせいか、とにかく喜怒哀楽を顔に表すことが少ないために、あちらの人たちの中には奇異に感じたものもあるらしい。
ある日、下宿のおばさんが「あなたは豆をねってつくったトウフというものを食べるか」ときくから「日本ではみんな食べているが、いったい、それがとうしたというのか」とききかえしたら「日本の人たちがあんな大震災にあっても悲しそうな顔をしないで落ち着いているのは、トウフを食べているからだ、という話を聞いたので」といって、町で聞いてきた話しをしてくれた。むろん、日本人の無表情とトウフとは関係のないことだが、どこの国でも知ったかぶりをする半可通がいて、もっともらしい話をつくりだすものだと、おかしくもあり、また人ごとではないような気もしたのである。
なお、末川博氏はこの後、日本に帰り、母校の京都大学の法学部教授で教育に携わっていたが、軍国主義と思想統制の嵐(関東大震災の100倍の災難を日本と近隣国にもたらした)に抗して、京都大学を去り(滝川事件)、戦後の民主国家の建設に立命館の総長として大車輪の活躍をした人。同時期、東大総長として戦後日本の思想界をリードした矢内原忠雄と同じような光彩を放っている人。
あすから、東京、横浜に孫見物の旅。
末川博(元 立命館大学総長)「彼の歩んだ道」(岩波新書 1965年)p209
関東大震災
大正12年(1923年)八月の末、イギリス、ドイツ、スウェーデン、ノルウェーなどを旅行して、フランスにはいった。パリに着いてから三日目の九月二日の朝、散歩するつもりでホテルを出たとたん、そこに出ている屋台店にならぶ新聞見てびっくりした。どの新聞も第一面に日本のさまざまな写真をのせて最大の活字で「日本の大地震」という見出しをつけているのである。長崎からの簡単な電報がのっているのだが、最初は九州地方以外は全部地震に襲われて日本という国の大半が消え去ったのではないかとさえ思われた。大使館に出かけてきいても、詳しい報道はないというので、要領を得なかったけれども、時がたつにしたがって、箱根山以東が一面の海になっているような報道から東京、横浜を中心とする震災であるという報道にしぼられてきた。通信機関が今日ほどに発達していないうえに、日本の中心がひっくりかえって混乱しているのだから、やむをえなかった次第である。
いづれにしても、たいへんだ、気の毒だというわけで、パリの官公署は、反旗を掲げて弔意を表し、やがてフランスとベルギーでは、公共団体や協会が救援金の募金を始めるというふうに、日本が第一次大戦で連合国として協力したことに対する感謝の意もふくめたと思われる救援活動が広く展開された。ところが、私たち日本人は、地震、雷といったような天災についてはあきらめが早いせいか、この遠いパリから心配してもしようがないと思うせいか、とにかく喜怒哀楽を顔に表すことが少ないために、あちらの人たちの中には奇異に感じたものもあるらしい。
ある日、下宿のおばさんが「あなたは豆をねってつくったトウフというものを食べるか」ときくから「日本ではみんな食べているが、いったい、それがとうしたというのか」とききかえしたら「日本の人たちがあんな大震災にあっても悲しそうな顔をしないで落ち着いているのは、トウフを食べているからだ、という話を聞いたので」といって、町で聞いてきた話しをしてくれた。むろん、日本人の無表情とトウフとは関係のないことだが、どこの国でも知ったかぶりをする半可通がいて、もっともらしい話をつくりだすものだと、おかしくもあり、また人ごとではないような気もしたのである。
なお、末川博氏はこの後、日本に帰り、母校の京都大学の法学部教授で教育に携わっていたが、軍国主義と思想統制の嵐(関東大震災の100倍の災難を日本と近隣国にもたらした)に抗して、京都大学を去り(滝川事件)、戦後の民主国家の建設に立命館の総長として大車輪の活躍をした人。同時期、東大総長として戦後日本の思想界をリードした矢内原忠雄と同じような光彩を放っている人。
あすから、東京、横浜に孫見物の旅。