田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

西村秀夫先生の思い出(2014/10/14)

2014-10-14 22:34:41 | 先生・友人
昨日は、台風13号の影響で、外出はダメ、テレビもDVDも飽きた。釣りの仕掛け作りも終わったで、手持無沙汰。
 ふと、思い出して、大学生の時、3年間過ごした同志会という学生寮の会報に、題は自由でいいから、何か投稿しないかとの案内の手紙があったのを思い出しました。
 私が高校生~大学~今の田舎生活・若い人の就職の応援センター勤務と過ごすにあたって、随分と教えていただいた、西村秀夫先生の思い出を前から書いてみたいと思っていました。
 それで、昨日の閑な午後は、西村先生の思い出話しを綴っていました。
 今は、書いた原稿はメールで同志会に送ればそれで終了。随分と便利になったものです。投稿多数の場合は、原稿は没になりますが、どうなりますか。
 長いですが、下のような内容です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 西村秀夫先生の思い出

 学生寮の同志会を巣立って四二年、年齢も六五歳、一〇年前に、勤務していた北九州の会社をリストラで去った後、釣りや畑を堪能し、併せて北九州市が運営している若者向けの仕事相談事務所にも顔を出している。周りの友人や家族も、リストラされて良かったねと言うし、私も同感。

 時々思い出すのが、西村秀夫先生の姿。西村秀夫先生は、当時の同志会では、知らない人はまず居なかった、東大教養学部で、学生の進路指導をしておられた先生。無教会のクリスチャンでもあり、大学内の柏陰舎という茶室で、杉山好先生と、聖書講義を毎月学生向けに開いておられた。

 私が初めて西村先生にお目にかかったのは、高校三年生の冬、受験先を東京の某大学に決めた直後で、ちょうど私が通っていた四国今治の高校に立ち寄り、講演をしてくれた時。聴講の対象は、一年生、二年生で、三年生は受験の追い込みなので来るに及ばすという、校長の指示だったが、これは聞いておくべきだと感じ、敢えて参加。私の故郷今治は、戦後東大総長をした矢内原忠雄の生まれ故郷で、その縁もあり、今治に立ち寄ったとの話だったと思う。矢内原忠雄が今治出身の人で、西村先生の恩師でもあるとその時初めて知った次第。講演の内容は、大学に入って、やるべきことを見つけるのではなく、高校生の時に、何の目的で大学に行くのか、決心して入学してほしいといった内容。当時の私が通った高校の進学指導は、まず大学に入れ、やるべきことはその後、考えたので良いというもので、西村先生の主張は、これと逆。最後に「志を持って大学にはいれ」と黒板に大書して講演を締めくくられた。その時、校長の恥じてうつむいた姿が今も目に浮かぶ。こんな立派な先生がいるのなら、大学に行ってみようと、残りの三カ月、受験勉強に弾みがつきました。また、アーノルド・トインビーの歴史の研究も、毎日少しずつ読んでいました。大学では、経済史を勉強するつもりでした。

 首尾よく、志望の大学に入学すると、すぐ、その年は日本全国、大学紛争の嵐。私が入学した大学も授業は一年間無く、もうすぐ授業が始まるとの噂を信じて、毎日キャンパスに昼食を取りに出掛けたり、知り合った学友と、読書会をして、日を送っていました。その頃は西村秀夫先生の書いた、新聞記事を目にする事が多く、あの西村先生だ、いつか直接話を聞きたいものと思っていました。読書会も、西村先生の、そのまた先生ということで、矢内原忠雄の「キリスト教入門」を選び、無教会キリスト教とか、内村鑑三の生き方を知ることも出来ました。先生の勤務する学内で柏陰舎聖書研究会を行っており、広く都内の大学生、高校生も参加okと聞いていました。私も行こうか行くまいか迷っていました。意を決して、大学2年目の春、都内の書店で聖書と讃美歌を購入、柏陰舎の門を叩きました。勉強が忙しくなるまでの一年半、ここで、西村秀夫先生、杉山好先生の聖書講義を聴くことが出来ました。杉山先生が正月に城ケ島で行っていた聖書講義に参加したのが、きっかけで、学生寮の同志会を知り、北原現同志会理事長の紹介もあり、同志会に暮らすことになりました。西村先生とは、年に一度程度、講演会や公開セミナーでお話しを聞く程度で、大学を卒業し北九州のメーカーに就職するまで親しくお話しすることはありませんでした。ただ、東京を離れる直前、たまたま、山手線の電車で向かいの席に西村先生が座っておられて、ご挨拶したのが思い出となりました。

 その後、友人や、北九州の無教会の方から、西村先生のご子息が自殺され、その後、東大を離れて、札幌の障害者の施設で、クリーニング工場の管理者として働いておられるとお聞きしていました。

 五五歳でリストラ、釣りや畑で遊んでいました。ご縁があり、北九州市が、ハローワークにも行かない若い人の仕事の相談に乗る、事務所を開設、そこの相談員としても働くこととなりました。私もリストラされて、失業の身、同じ失業状態の若い人と話が合いました。

 ちょうどそのころ、同志会で同じ釜の飯を食った岡崎新太郎氏(下関の梅光学院で教鞭を取っていた)が福岡市で、無教会の全国集会があり、一緒に行かないかと声を掛けてくれました。あまり、気が進みませんでしたが(釣りの方が面白い)、岡崎氏が誘ってくれたのだからと、出かけてみました。会場に着くと、作務衣を着た、人の良さそうな耳の遠いお年寄りが前に陣取っていました。よく見ると、西村秀夫先生でした。驚いてご挨拶しましたが、私の事は、よく覚えていないご様子でした。講演の合間にトレイ休憩があり、ロビーで西村先生とすれ違った時、話しかけられて「最近、教育は、一対一のマンツーマンで、落ちこぼれの若い人の夢を実現するお手伝いをすることと、思いますよ」とおっしゃっていました。私も、そういう仕事を現在していますと、名刺をお渡しすると、それは良かったと、喜んで頂きました。この名刺、もらっていいんですかと、おっしゃり、どうぞ、どうぞと返事して別れました。その二か月後、先生はお亡くなりになったと、人から聞きました。

 先生に福岡市でお会いした直後、NHKテレビの宗教の時間で、西村先生のインタビューが一時間あり、それを拝見しました。ご子息が自殺する前後の話がありました。自殺する一週間前に、ご子息と話していて、「お父さん、僕のところに下りてきてほしい」と両手を鳥のように広げたが意味が分からなかったという話、その後ご夫婦で精神科の病院に入院、そこで、看護婦さんに強く叱られた時、「ストンと落ちた」という話が心に残りました。職場の同僚にその話をすると、その時、西村先生は、ご子息の所に下りたんだと思うとの感想で、私も同感でした。

 今も、釣りや畑に夢中になっていますが、若い人との対面での話も続けています。そうした中で迷ったり、方向性を失いかかることもありますが、トイレ休憩の時、私に話してくれた「教育はマンツーマン、落ちこぼれの若い人の夢をかなえるお手伝い」というお話は、心強い道しるべとなっています。西村秀夫先生はいくつか本を出版されていますが、その代表作は「教育を尋ねて」という、東大紛争が終わってから出版した本だと思いますが、亡くなる二か月前に、その結論を聴けたのは、大変な恩恵だと感謝しています。

 高校三年生は、受験勉強が大事だから、西村秀夫先生の講演会に出るに及ばずとの、校長の話に従わずに西村先生の話を聞いたため、柏陰舎聖書研究会、同志会と渡り歩き、北九州の会社にも入社・リストラと続き、釣りだ、畑だの田舎暮らしを楽しみ、若い人の仕事探しのお手伝いもやり、やや粗暴だが信頼できる、主として自営業を営む、友達(不良爺さん達)も沢山出来といった、面白い人生に繋がったのだと思う昨今です。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする