今回は、2024年も残り少なくなりました。今年のこのブログ、完全にさぼっていました。そこで今回は、その汚名を払拭しようと滅多にここへ記事を載せることをしなくなった、石碑調査の完全調査報告書として「栃木県さくら市喜連川の墓碑の全景から銘文、拓本、読み迄の完全セットでご紹介します。それというのも、この墓碑はPCなどでは結構取り上げられているのに、その完全な調査報告内容がないこと。写真や拓本画像だけは溢れていますが、銘文の文字起こしに、それを確証するための拓本は小さくて良く見えない。加えて、その銘文は何が書かれているのかが概略だけでも載せればよいのに、何もない。篆額と銘文と揮豪は巻菱湖。撰文者は朝川善庵。そして石工が窪世祥という豪華な顔ぶれなのに、である。
どうぞ、暮れに入って暇な方はごゆっくりと堪能してください。
それでは、全景写真、文字起こしした銘文、その拓本画像、そして読みの順で掲載します。が最後の読みは、私流の漢字に沿っての訳文なので、くどくて読みにくいですことご了解下さい。
栃木県の平成合併前の行政区分で言っても、今は佐野市と合併しました田沼町は、それらの行政区分で最大数の石碑所在地です。今回も何とか一冊でまとめられないかと、明治後半から昭和に入っての建立石碑は削除してしまおうかと考えましたが、そこがまた、田沼町石碑の最大の魅力なので、仕方なしに今回の頌徳碑を上巻として報告書を作成しました。目次も掲載しておきましたので参考にして下さい。また、私が選んだ栃木県三名石碑として、田沼町で二基を選びましたので、特別に図版として掲載しました。もっとも、この報告書は自分用の一冊しか作成していませんので、誰も見られませんが。
それでは今回も、表紙画像と目次画像です。
そうそう、それと「赤尾思敬先生」の墓碑は、この田沼町石碑調査書の次の下巻に取り上げていますのでご心配なく。この下巻も、年内中には製本まで終わると思います。そしたら、またその報告をここへ掲載しましょう。
この宝篋印塔を手拓したのは昨年の八月下旬。その後は余りにも文字起こしするだけでも大変なのに、その銘文の概略だけでも訳すだけでも「こりゃ~大変だわ」と放置したまま県内東北部の地域の石碑調査に取り組んで早くも1年以上が過ぎてしまいました。いい加減に、もうそろそろ調査報告書をお寺さんに提出しなければと、一大決心をして今月2日から開始して何とか昨日に完成して提出用のA3用紙に印刷して終了しました。そして今日は、朝から自分用に保存しようと眺めていたら、各所に訂正やらが沢山出てきて「ああ、こりゃ~まいった」と嘆くが既に出来上がっているのでもう一度やり直す気力はなく、そのまま訂正する気力はなくなったので、持参したときに言い訳して許してもらおうと思っている。
そんな、中途半端な調査報告書となってしまったが、これをご覧の皆様も笑いながら見てください。なお、銘文中に「私には不読。意味不明」とある場所の一つでも良いですから分かるところを教えて頂きたいと思っています。なお、読み部分は、仏教の意味が正しく理解できぬまま訳しましたので、お許しください。
それでは、画像が8画像も続きますが、面白半分に最後までご覧いただけましたら幸いです。
以上です。こんなつまらぬものを最後までご覧になりました方に拍手喝采です。
今回も、前回の掲載から60日以上も過ぎての掲載です。別に、石碑調査等をサボっていたからではなく、その逆でここへ掲載する手間暇もなくあちこちと動き回っていたからです。加えて、横浜から先輩・後輩が6人も来て、日光への一泊山旅を楽しんだりと、それはもう忙しい時間を過ごしていました。その結果、前回にご紹介した「佐倉市の石碑調査」報告書も、新たに調査し直したり画像や全体構成を変えたりして新版書を新たに印刷発行することが出来ました。
そして今回は、印刷段階まで終了していながら発行できなかった「佐野市の石碑調査書」が197ページといういつになく厚い報告書が出来上がりました。表紙と目次だけですが画像で掲載しましたのでご報告いたします。
当然のことながら、一冊手作りするのに大変なので、今回も頒価するつもりはありません。
この暑さの中で、拓本採りをしている者をさげすんで下さい。そして帰宅しては夜な夜な石碑調査の報告書を作成している姿を。勿論私はエアコン等は全く使わない書斎で扇風機だけで窓を開けて外の外気を吸いながら作業しています。
さて、そんな成果のおかげで今月は「栃木県さくら市(旧氏家町と旧喜連川町)の石碑報告書をまとめあげることが出来ました。お世話になった方々分の3冊に自分の分の1冊を加えて意外と早く作業が進んで4冊をプリントアウトしたのですが、調子に乗りすぎたようで3冊目までは製本作業も順調だったのですが、なんと何と、最後の1冊で大チョンボ!。それは、製本のための背をボンド付けする時に縦書きなので当然右側をボンド付けすべきを、何を考えていたのか(いや、まったく何も考えず)に左側に付けてしまったのです。それでも幅は3mm程度なので傷は浅いほうなのですが、ショックは隠しようもなく、最後の表紙付けは雑になるわ、上下ち左側にタワミが出るわで最悪。それでも、自分の分は後日作り直すことにして、提出用の三冊だけは仕上げることができたので、明日4日に持参配布するのには間に合いました。が、悲しいかな自分の分の報告書がない始末に相成りました。またまた、自分のチョンボぶりに皆様に大笑いされること間違いなしです。まあ、そんな報告書の表紙と掲載内容の目次箇所画像を一緒に掲載しましたので、さくら市に所在する石碑の概要だけは分かるかと思います。
そんな失敗談の後なので、悔し紛れに本来は拓本を採るつもりもなかった高さ3メートル余の石碑を手拓しましたので、何の腹いせなのか自分でも分からないのですが、一緒にここへ掲載してしまいました。その拓本さえ、いろいろといわくつきで結局は銘文を担保するだけの役目しかないお粗末な拓本になってしまいました。これも書き出すと長~い話になるので今回はやめておきましょう。
それでは皆様、くれぐれも猛暑にはご留意下さいまして楽しく、成果のある今夏をお過ごしください。私は、この夏のために一年間保留にしていた、少なくも2週間はたっぷり読むのにかかりそうな超難しい長文の漢文読みに挑戦です。
※暑いので読み返しもせずです。上記の文章中に、誤字脱字等がありありましたらご容赦ください。
ここの所の栃木県内石碑調査において、私の最も篆額で気に入っている画像をご紹介します。
それは、栃木県さくら市にある、篆額で、「金子小七郎先生墓碑銘」とあるものです。揮ごう者は「亀田 英」です。特に私が気に入っているのは「金子」の文字の「子」そして次いで「生」に「郎」にと、とにかくすべての部分です。訳もなく、とにかく私は気に入っています。
昔ならいざ知らず、この頃では全くと言って良いほど銘文のない石塔には全く関心がなくなりまして困ったものです。その上に、今回のように石塔の表裏が分からなかったと言えばそれまでだが、本来は裏面に当たる面を正面に据え付けていれば猶更のこと、写真も撮れないので通過してしまう。しかしそれも、最近では珍しく同じ個所を通過道として通ったのも何かの縁と、立ち寄って改めて裏側になっている面を見れば、そこに「男體山」の文字が目に入る。いつかは、栃木県内の「男體山」の文字塔を纏めてみたいと思っているので見逃すわけにはいかなくなってしまった。しかし、その資格柱には4面に文字が彫ってあるので、それを全部拓本に採るとなると結構な時間を要することになる。そこで、今回も調査はパスして3回目に出会った時こそ調査しようと一瞬考えたが、この地区の調査は石碑を含めて既に用のなくなった地域。多分、今度こそここへは再度訪れることはないだろうと思う。そこで、今日のこれからの予定を変更して、「ここで出会ったが何年目!」と、覚悟を決めて拓本を採ることにした。
そして作業を進めたが、碑表と碑裏はあっさりと片付いたが、左右の二面が問題である。石面が剥離始まっていて、この地区の地名と氏名が幾つも刻まれているが、それが簡単には読めない状態。拓本を採る者にとっての悩ましい状態である。拓本を採っても、それが読めないことには、採らなかったことと何ら変わりはないのと同じことであるから。ここからが、私の本気モードにスイッチが入って、本気になって作業に入る。一枚採るのに一時間半掛かり、結局は2枚で3時間、最初の2枚と合わせると何だかんだと6時間をここで費やしてしまう。終わった頃には腰痛も加わりだしたので、本日の作業はここまでで終わりと午後も2時半になったのを潮時と、本来の訪れる場所を通過して早めの帰宅となる。そうそう、台座にもこの百番塔内容の本人お二人様と考えられる氏名がありますので記録をお忘れわきよう。!
これが本来の裏面で、ご覧のように本来の碑表は隙間がなくて写真撮影は出来ず。
そこで、次はその全体像が分かるように調査用紙を先に掲載しましょう。
これが、全体の銘文です。左右面にある村名や氏名などは、よほどのこうした類の銘文調査経験を積まないと、まあ、読めないでしょうね。「いや、私ならもっと確実に読める」とおっしゃるご仁もいることでしょうが、ぜひそういう方はこの前に立って解読に挑戦してみてください。拓本画像を「碑表」と「左側面」の画像を次に掲載しておきますので。
ただし。読めたからと言っても「ただ、それだけです」が。まあ、私以上に暇でしたらどうぞお楽しみ下さい。
今回も、栃木県佐野市田沼町の石碑です。昔に調査や拓本もありながら、今更ながらに再度拓本を採とましたので、掲載いたします。と言っても、今回の拓本は約一カ月前の2月15日に採ったものです。何しろ只今は、寒くて拓本が採れない時期なので、既にち調査報告書まで作ってあるものを含めて何度目かの校正を毎日行っているのですが、少しも減りません。中には、一基を仕上げるのに一週間かかって校正するものまで出てくる始末で、特にその銘文に誤字が無いかに神経を使いすぎていることは分かっているのですが、こおれも性分で諦めつつ一基づつもう少しやろうと思っています(拓本が採れる季節になるのももう少しですので、それまでですが)。
明日はどうやら拓本が採れそうな陽気になるというので、石碑の裏面にある交名を調査してこようと、先ほど車に道具一式を詰め込みました。願わくば、明日は風のない穏やかな天候でありますよう、願っているところです。
今年も残すは明日大晦日だけです。今年一年も、私なりに過ごせた一年と感謝しています。
さて、そんな今年最後のブログ掲載としまして、12月に佐野市田沼町・一瓶塚神社境内に所在する「加藤欽古翁碑」をご紹介いたします。もちろん、この石碑はこれまでに何度も眺めては、一部分の拓本は採っているのですが、その石碑全景はまだ採っていませんでした。そこで今回は、碑隂の交名を含めて二日間の予定を立ててお伺いし、この成果をここへ最終的にご案内することが出来ました。特に欽古翁の画像には神経を使いながら手拓しました。
この石碑は、只今進行中の田沼町石碑の書籍を編集中に、何とも拓本が悪すぎるので再び拓本を過日採りに行きまして、なんとかこれで納得したのですが、問題はその台座にあり、その台座の筆子達の名前を調査する段階で今日は早くも午後の三時過ぎ。今は、一年で最も日の暮れるのが早い時期。このまま進めれば、調査が終わるころには真っ暗闇になってしまいます。何事もあきらめの早い私は、この作業をいつの日か、暇が出来たときにでも再訪問しようとあっさり諦めて帰宅しました。
そんな次第で、今回は交名を抜かしてのご紹介です。今回も、相変わらず読みを抜かしての全景写真、銘文に拓本画像の順にご紹介します。
それにしても、今年も早年末。年内に、拓本採りに行けるのもあと一回が良いところでしょう。田沼町だけでも再拓本をしたい石碑が沢山あるのに。何とも今年も短い一年でした。