私は、後世に残したい私好みの石碑を中心に調査記録等をしているが、時には隣の石碑を手拓していてその勢いというか流れで、同じような3メートルを超える高さの石碑が並んでいたので、長い時間をかけて碑面を綺麗に掃除して、ついつい手拓してしまった。いつもなら、その時間がもったいないとこぼす私なのに、である。そこで、そのままお蔵入りで没扱いにするにはもったいないと、ここに掲載しておこう。それは、神様に奉納する神楽についての内容と、それを伊勢神宮に奉納をしに行った人々の物語である。前半は、いわゆる天岩戸の物語であり、私にはあまり興味がないので、本来なら石碑調査としてはパスしてしまうものである。当ブログをご覧の皆様の中には、そうした物語が大きな石碑に刻まれていることに興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら幸いである。
読み下しは、既にご存じの通りなので面倒も加わってしていません。ご了承ください。写真は、とにかく南東向きで、木の下にあり、いつ行ってもまともな写真が撮れません。
今回の調査は、10月01日に栃木市藤岡町の繁桂寺墓地へ行きましたが、いや~あ真夏並みの暑さの中を四角柱3面にある墓碑銘を真剣になって手書きしましたので大汗をかきました。それでも、これで鴎村森保定先生の銘文石碑もこれで最後かと思うと考え深きものがありました。いつものように野外に建立されている石碑なら、その前で一人乾杯をしたいところだが仕方なし。ついでに、同墓地内になる森保定先生の墓碑も写真に撮っておくことにした。
さて、今回の岩崎家墓碑銘は、森保定先生第一の門人として知られている岩崎清七翁(清七の実父)の墓碑銘で、それは翁が70歳になったときに作られたもので、実際には保定先生の死亡よりも一年遅い明治41年に建立されたものなので、当然ながら最初に書かれた銘文にはない重要な謚や卒年を書き加えたりしなければならないので、多くの個所が加筆されていますので、ここでは最初にその実際に刻まれている墓碑銘を掲載しました。そして最後に、明治21年に初稿として書かれた銘文(この内容が、遺稿集には収められている)を掲載しました。お暇な方は読み比べてみるのも一興かと。
この石碑は、藤岡町部屋の一人の青年が23歳で父が亡くなり、後を追うように兄も亡くなったので、次男であった山中静(号名が耕雲・山中)が隣村の森鴎外の思想を受け入れて、既に妻子がある身ながら母親の許可を得て生活のための仕事全てを弟に譲り、また妻子の面倒を頼んで単身東京へ勉強に行くところから始まる。この時代の新聞社事情の一端を垣間見る思いと、34歳で亡くなるまでの物語は非常に熱くなるものがある。撰文揮号などは、全て川田剛である。小さな石碑ながら、文字数が800字を超える長文で、清書などに意外と日数が掛かってしまった。
相変わらず、石碑全景から読みまでの5頁を掲載しました。ただ、一か所だけ氏名の「三渓」という方の詳細が分かりませんでした。横浜育ちの私には「原三渓」しか知らない不勉強の身が悲しい次第である。ご存じの方は是非のご教示をお願いいたします。
昨日、「記念碑」という石碑についてこのブログに掲載しましたが、その中の銘文9行目に「(大)西洋之計画」の「画」の文字が「晝」になっていることに気づかれましたでしょうか。漢文を始めた頃にこの「計晝」の所が、なぜ「計畫」の「畫」の文字でなく「昼」の正字なのかが理解できずに悩みました。読めぬ悔し紛れに、書家の文字間違い??とまで疑い出しました(笑)。理解できたのは、それから随分と時間が経ってからでした。
まさか、私の知識では「晝」の文字が正字「畫」の異体字とは想像も出来なかったのです。それから何年も経って、今回またしてもの出現に、「二度目の出会いだ!」と変に興奮しました。勿論、今回はすんなりと理解しましたが…。
本当に、漢文は外国語だと頭では理解しているのですが、難しいですね。下記にその拓本画像の拡大を掲載しました。
その、根拠は、「晝」為「畫」之異體。按《隷辨・巻五・偏旁》 以下は省略。出典「教育部《異體字辞典》臺灣學術網路十三版正式六版。
五月三日、暫くぶりの栃木市藤岡町訪問なので、嬉々として出かけまして、早速にまだ朝の八時少し過ぎたばかりだというのに、事前連絡もなしに突然の山中氏宅訪問。半分は、早朝から突然の石碑調査に伺った訳なので、嫌な顔をされるのは当然と思いきや快く迎い入れてくださいまして、勿論拓本採りも快諾いただきました。石碑は、自宅庭に建立されていますが、何の気づかいもせずに自由に作業してくださいとのありがたいお言葉。早速に碑面をいつものように掃除してからまずは篆額部分を半切画仙紙を横にして水張。早朝という事もあり、風もなくルンルン気分で墨入れ迄難なく終了。しかし、それからがいけません。急に吹き出した風はとてもではないが水張の出来るような状態ではない。しかし、宇都宮くんだりからやってきたからにはそうやすやすと退散するわけにはいきません。全紙画仙紙を縦にして使えば、左側部分は半切画仙紙で十分すぎるほどのOK!。そして何としても水張したくて頑張ったが、所詮は強風の勝ちで、一枚目はものの見事に水張途中で吹き飛ばされてしまう。二枚目は、ガムテープを片手にして風と格闘しながら作業を進めたが、用紙の半分から下はどうにもならないシワだらけの水張となってしまった。両足の膝小僧迄、風と立ち向かってくれたのに…である。それでも、この風の中での画仙紙水張は実に何年ぶりだろうかと思うほど昔の事。やはり全紙など使わず、こせこせと半切用紙で水張すればこれほど見事に失敗しなかったろうにと反省するも、まあいつもの、「今回は銘文さえ読めれば良しとしよう」として墨入れに入る。が今度は、太陽が石碑全面に、しかもまだ五月に入ったばかりの暑さではないような直射日光。こればかりは逃げようもなく、水張した個所は見る間に乾いてしまう。仕方がないので、縦五文字づつの水張として直ぐに墨入れの作業を繰り返しを延々と続ける。墨の色が薄いだの、シワが入ってしまいみっともない拓本と嘆いている間もなく、とにかく銘文文字に墨を入れるのが最優先。そうこうして、結局は銘文が読めるだけの、昔に拓本採りを始めた頃の何とも情けない拓本に仕上がったものをそれでも急いで車の中に収容。剥がして、うっかり地面に置いて手を離せば、春風さんがスキを狙って遠くに持って行ってしまう有様なのである。たった半切画仙紙四枚分の拓本なのに、終了したのは午後の一時半になろうとしていた。嗚呼、イヤダ嫌だと自分を責めながらも、山中家の皆様に厚く御礼を述べてから、次の目的地へと向かったが、当然ながらもう拓本等を採るつもりは全くなくなっていました。
なお、碑面が茶色になっている個所は私が汚した箇所でなく、根府川石のために、内部劣化は始まっているためです。墨入れしただけで、その箇所はトントンと音が反響していました。やがて、ある日突然にパカッと剥がれてしまうのでしょうね。その前に、酷い拓本ながら手に入った喜びは大なるものがありました。本当に本当に、山中家皆様には大変お世話になりました、
高勝寺さん、山頂山門脇に長年置かれています、山門標柱には一体何が書かれているかは、多くの方にとっては気になる存在でしたが、誰もそれに挑戦した人はいないというので、遊び半分に先月に行って拓本やら写真を撮ってきましたが、その石質が「岩舟石」ということで、拓本を採るのに四苦八苦。加えてそこに割れたための欠損箇所があり、何としても私にはその文字が読めない。これは安請け合いをしてしまったと後悔したが、時すでに遅し。まあ、いつものように時間をかけて一文字ずつ解読していこうと思っていたところ、栃木県書道連盟の副会長の重責を担っています、大浦様が遊びに来られる。もしかしたらと、帰り際に拓本本体とその解読資料を見せたところ、大浦様「お預かり!」となって持って帰られました。そして翌々日には、その解読資料をご持参して再来宅。何と、全14字の内の12字を解読してしまっていました。流石は大浦様と、篤く畏れ「一字之師」として拝んでしまいました。
そんな資料をここに掲載しましたので御笑覧下さい。
いや~あ、参りました。今年のブログは記事投稿をサボっていたので、今日で二か月も投稿がなされていませんというアナウンスを受けてしまいました。
そこで急いで、先月に作っておいた昨年からの連続調査中である森保定撰文碑を早速に掲載しました。今回はそんなこともあって、全景写真から、銘文、拓本画像そして語彙説明まで全て掲載してみました。御笑覧下さいましたら幸甚です。
一気に鴎村先生の碑を全部まとめ終わりました。但し、語彙説明は余りにも数が多いのと難しい話ばかりなので省略しました。読み下しまではまだ手付かずなので、いつかは追加として掲載したいと思いますが、このブログには多分未掲載となるでしょうネ。
それと、碑陰にある銘文(撰文は岩崎清七で、当然その揮毫も同じです。)鴎村先生の概略と、自宅が火事の類焼にあった話なども記されています。
明日からは、また新しい鴎村先生撰文碑の清書に入りますが、拓本は採ってあるのですがそのままで画像をパソコンに取り込んでいません。これも結構大きな石碑なので、仕上げるにはそれなりの多くの日数を要しますので、暫くはこのブログへの新し記事は開店休業状態となるでしょう。なにしろ、それが2基もあるのですから…。
昨日も記しましたように、今回は銘文文字をいつもの全文作字文字とせずに、その殆どがパソコン内にある正楷書書体を使用して作成しました。今回は、篆額を含めた碑表全体の銘文です。そんな次第で、文字形が拓本画像と異なっていますことをお許しください。その結果として、こんなにも早く掲載できました次第です(笑)
今回の拓本は、現在進行中の「森保定」、通称・鴎村森先生または森保定として江戸末期から明治にかけて、主に当下野南部地区に於いて大活躍をした漢籍の大先生が県内に残された石碑を纏めようとして、最終段階での遺徳碑調査収穫です。いわゆる巨碑の部類に入る石碑なので、拓本を採る前にその碑面掃除に丸一日掛かりました。3メートルの高さに加えて、両面に銘文があり、特に碑表は一千四百余字の銘文があります。また碑陰にも六百文字余の銘文が有ながら、余りにもの汚れ用で碑表共々どこに一見しただけでは銘文があるのさえ判らない始末でした。それをせっせと持参した大量の水で、バケツとタワシで汚れを洗い流し、更にジョウロ持参で流れ落ちる汚れを洗い流しながら磨き上げました。
そして二回目は、朝8時から取り敢えず碑表だけの手拓作業として朝8時から開始。これまた、いつもの三脚では無理なので特別な梯子を持参して手拓作業となったのですが、高所の一人での全紙の水張だけで四苦八苦。何回梯子の上り下りを繰り返したやら。また、墨入れに入っても何度も何度も梯子を上り下りしての作業が延々と続き、結局はロクに休憩どころか昼食も取らずに続けて、何とか碑表だけで夕方(と言っても季節柄午後の三時には終了せざるを得ませんでしたが)まで掛かってしまいました。
その拓本、其の後は採ったままで居間に置いたまま2ヶ月近く寝せていて、結局は年を超えた一月に入ってから、パソコンに取り込みましたが、A4用紙で八十四枚という有様でした。拓本画像取り込みだけで疲れてしまい、ようやくそれを一枚の画像に仕上げる作業は今週に入ってから。これまた延々と八十四枚の画像を一つに仕上げるのに丸々二日を要しました。この段階で、もう拓本画像の処理は行いたくないとして、ここへ掲載した文字画像は一切の修正も加えずに掲載しました。尤も、こんなことになることは予想していたので、墨入れ時からいつも以上に細心の注意を払いながら作業をしたので、まあまあ何とか納得できる拓本だから出来た結果だろうと自画自賛ですが…。
さて、今度はこれを元に最初の明朝体による銘文起こしを、今夜あたりから始めなければなりません。揮毫者は「畫禅道者柴田達士道父書」(この方の情報が私には何も判りません。判る方からの情報をお待ちしています)と言う方で、特別に難しい?文字を使っていないので、今回の銘文清書は、いつもと違ってパソコンにある楷書体で作成してごまかそうと思っています。何しろ、全て作字文字にするとそれだけで三週間近くは必要になるので、降参状態です。ちなみに、撰文者は石碑撰文者として有名な仙台の岡千仭です。
そうそう、石碑の全景写真やら、その銘文掲載(碑陰も含めて)は、いずれにしましてもまだまだ先の事になりそうです。そんな訳で、今回は拓本画像だけの掲載にしました。当ブログでは許可されている最大画像サイズ(1920ピクセル)で掲載しましたが、それでも小さくて見にくいのは、それだけ大きな石碑でありながら多くの文字が詰まっているからです。とお笑い下さい。そしてついでに、どなた様か銘文の読み下しをお願いいたします(笑)。