一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

『他人と深く関わらずに生きるには』(池田清彦) ……国家は道具である……

2022年08月28日 | 読書・音楽・美術・その他芸術


本書『他人と深く関わらずに生きるには』(新潮社、2002年)は、
20年前に(刊行されたときに)買った本で、
数年前に断捨離をしたときに押入れから出てきた。
タイトルを見て思わず笑ってしまった。
〈昔から私はこういう考え方をしていたのだな~〉
と可笑しくなり、
処分せずに取っておくことにした。


著者は池田清彦。


【池田清彦】(いけだ・きよひこ)
1947年、東京都生れ。
東京都立大学大学院理学研究科博士課程単位取得満期退学。
理学博士。生物学者。
早稲田大学国際教養学部教授を2018年春に退任。
著書は80冊以上あり、
『構造主義生物学とは何か 多元主義による世界解読の試み』(海鳴社、1988年)
『構造主義科学論の冒険』(毎日新聞社、1990年。のち講談社学術文庫)
『昆虫のパンセ』(青土社、1992年。後に『虫の思想誌』として講談社学術文庫で刊行)
『生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった』(実業之日本社、1997年)
(後に『だましだまし人生を生きよう』のタイトルで新潮文庫で刊行) 
『新しい生物学の教科書』(新潮社、2001年。のち文庫)
『環境問題のウソ』(ちくまプリマー新書、2006年)
『38億年生物進化の旅』(新潮社、2010年。のち文庫) 
『「進化論」を書き換える』(新潮社、2011年。のち文庫)
『この世はウソでできている』(新潮社、2013年)
『生きているとはどういうことか』(筑摩選書、2013年)
『世間のカラクリ』(新潮社、2014年)
『ナマケモノはなぜ「怠け者」なのか』(新潮社、2017年)
『本当のことを言ってはいけない』(角川新書、2020年)
『自粛バカ リスクゼロ症候群に罹った日本人への処方箋』(宝島社新書、2020年)
『どうせ死ぬから言わせてもらおう』(角川新書、2021年)
『平等バカ-原則平等に縛られる日本社会の異常を問う-』(扶桑社新書、2021年)
『病院に行かない生き方』(PHP新書、2022年)
『SDGsの大嘘』(宝島社新書、2022年)
などの他、


共著も多く、(特に養老孟司と仲が良く)


養老孟司・奥本大三郎共著『三人寄れば虫の知恵』(洋泉社、1996年。のち新潮文庫)
養老孟司・奥本大三郎共著『虫捕る子だけが生き残る 「脳化社会」の子どもたちに未来はあるのか』(小学館101新書、2008年)
養老孟司・吉岡忍共著『バカにならない読書術』(朝日新書、2007年)
養老孟司共著『ほんとうの環境問題』(新潮社、2008年)
養老孟司共著『正義で地球は救えない』(新潮社、2008年) 
養老孟司共著『ほんとうの復興』(新潮社、2011年)
養老孟司共著『年寄りは本気だ―はみ出し日本論―』(新潮社、2022年)
などがある。



フジテレビ系列の情報バラエティ番組『ホンマでっか!?TV』に出演しているので、
ご存知の方も多いと思うが、


あのにこやかな表情とは裏腹に、
著書での論説にはかなり“毒”があり、(ということは賛否があるということ)
批判(や反論)を受けることも多いようだ。
私も、彼の意見に全面的に賛同しているわけではないが、
池田清彦の生物学的な意見が面白く、他の著書も愛読している。

本日紹介する『他人と深く関わらずに生きるには』は、
タイトルからして“生き方”の方法論を説いたハウツー本のような感じであるが、


第Ⅰ部こそ、
「濃厚なつき合いはなるべくしない」
「心を込めないで働く」
「ボランティアはしない方がカッコいい」
「病院にはなるべく行かない」
「おせっかいはなるべく焼かない」
「自力で生きて野垂れ死のう」
など、息苦しい現代を乗り切る新しい生き方、
新・人生訓とも言うべき“完全個人主義"を提案しているが、


第Ⅱ部では、
他人と深く関わらずに生きたい人にとって、
どんな社会システムを構築すればよいかを述べている。


基底にある考えは、「国家は人々が自由に生きるための道具だ」という、
ごく当たり前で、とても簡単なことだ。
私がこの本の中で、最も共感したのも、その部分で、
それは、
「国家は道具である」
という項に書いてあるのだが、
その冒頭の一部を紹介する。


国家は道具である、などと主張すると怒る人がいるかもしれない。日本が滅んだら、日本人の大部分は困るのだから、個々の日本人よりも、やっぱり日本という国家の方が大事だろう、と思っているのかもしれない。そう思っている人がいることは否定しない。この人の頭の中には国家という実在感がはりついているのだろう。もしかしたら、国家は実体だと思っているのかもしれない。
中には国家は生物の個体に比すべきもので、個々人は細胞のようなものだ、と考えている人もいるに違いない。しかし、これは明らかに間違いである。生物の個体が死んだら、個体を構成している細胞は生きていけない。細胞培養すればシャーレの中で生きていけるけれど、単細胞生物と違って自力では生きていけないことは明らかだ。個人は国家が消滅しても、そのことだけで死んでしまうことはあり得ない。個体の生存のために、細胞は死を余儀なくされることも多い。たとえば、生物がちゃんとした形を作り出すためには、アポトーシスと呼ばれる細胞のプログラム死が必要不可欠だし、個体がウイルスに感染されれば、ウイルスが侵入した細胞は容赦なく殺される。そうしなければ、個体が死んでしまうからだ。我々は自分の生存のために、自分を構成する細胞が少々死んでも当然だと思っている。
国家を至上とする立場からは、個々人もまた、個人にとっての細胞のように、国家存続のために、必要とあれば死ぬのも仕方がないと考えろということなのであろう。これは一見、筋が通ったお話のように感ぜられるかもしれないが、実はとんでもないウソなのである。生物の系列にとって最高次の存在は個体なのであって、細胞も社会も、個体の生存のための道具なのである。高等動物とくに人間においては、個体は意識を持つし、自由意志も持つ。細胞は意識を持たない。社会も国家もそれ自体としては意識も意見も持っていない。
国家の意見とか意志とか称するものは、結局の所、誰か個人の意見か、様々な個人の意見を調整した妥協の産物なのである。専制君主が、「朕は国家である」とうそぶいている国家とは、専制君主の私有物であって、国民は奴隷である。この場合、国家というのは一個人の所有物のことであって、個々人を要素とする全体などではないから、個人より国家が大事という話は大ウソであることはすぐわかる。
(111~113頁)

「国家は生物の個体に比すべきもので、個々人は細胞のようなものだ」
「国家を至上とする立場からは、個々人もまた、個人にとっての細胞のように、国家存続のために、必要とあれば死ぬのも仕方がない」
と考えている人は案外多くいて、
戦前の日本という国もそうであったし、
現在、侵略戦争を起こしている某国の大統領もそうであるし、
戦争したくてたまらなくて周囲の国々をけん制したり脅したりしている某国の最高指導者もそうであろう。
「国家は道具である」
という認識をしっかり持っていれば大丈夫なのだが、
「国家」を操る輩は、このあたりが実に巧妙で、日本でも、
「国家」に名誉や利益をもたらした(この道一筋の人に)文化勲章や紫綬褒章などの勲章を与えたり、人間国宝などに認定して「国家」というものに権威づけして、
さも「国家」が実在するかのように錯覚させ、信用させる。
(マイナンバーカードなど)様々な姑息な手段によって、
国家が個人をコントロールしようとしている今、
我々は、
「国家は様々な価値基準を持つ個人にとって等しく使い勝手のよい道具にならなければいけない」
ということを忘れず、
「国家」が何か身勝手なことをしようとしたら、(例えば「国葬」とか)
「道具の分際で!」
と、異議申し立てをしなければならないのである。
他人と深く関わらずに生きる……とは、
他人だけでなく、
国家とも深く関わらずに生きる……ということなのである。

この記事についてブログを書く
« 映画『サバカン SABAKAN』…尾... | トップ | 新しい登山靴で登った天山 …... »