一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『止められるか、俺たちを』 ……吉積めぐみを演じた門脇麦を目撃せよ……

2018年10月25日 | 映画


若松孝二監督を御存知だろうか?
インディペンデント映画の巨匠などと呼ばれはしたが、
一般の映画館(シネコンなど)で作品が上映されることは少なかったので、
あるいは知らない人も多いのではないだろうか……
なので、簡単に説明しておきたい。

【若松孝二】(わかまつ こうじ)
日本の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。
1936年4月1日生まれ。宮城県出身。
農業高校を中退して上京。
TVドラマの助監督を経て、63年にピンク映画『甘い罠』で映画監督デビューする。
1965年、若松プロダクションを設立。
反体制的な主張を込めた作品を数多く発表し、
学生運動の高まりとあいまって若者の支持を得る。
大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976年)では製作を務めた。
その後も、権力や体制に対する怒りを原動力に社会派の作品を生み出し、
国内外で評価を高める。
2008年、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で、
ベルリン国際映画祭のNETPAC賞(最優秀アジア賞)と国際芸術映画評論連盟賞を受賞。
『キャタピラー』(2010年)では、
主演の寺島しのぶに同映画祭の最優秀女優賞をもたらした。
2012年10月12日、東京都内で交通事故に遭い、
5日後の17日に逝去。(享年76歳)


私の場合、
若松孝二監督のファンというほどではないが、
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008年)
『キャタピラー』(2010年)
などのレビューをこのブログでも書いており、(タイトルをクリックすればレビューが読めます)
常に気になる存在の監督であった。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のレビューで、
私は、次のように記している。

この「あさま山荘事件」については、事件から30年後の2002年に公開された原田眞人監督の『突入せよ!「あさま山荘」事件』がある。
事件当時、警察側の幕僚長だった佐々淳行の原作を映画化したもので、すべてを警察側から捉え、山荘内部は、全く描いていなかった。
この映画を若松監督が見たことが、映画制作のキッカケだったという。
あるインタビューで、若松監督はこう語っている。
「モノを表現するっていうことは、国家とか権力側から表現しちゃいけない。タブーなんだよ。芸術家なら、必ず弱者の目から世界を見ないとダメなんです」
その言葉通り、この映画は、すべて連合赤軍の若者達側から描かれている。
学生運動の始まりから、分裂・統合していった集団、山岳ベースでのリンチ事件、そしてクライマックスの「あさま山荘事件」に至るまでの、すべてをだ。
5人が立てこもる緊迫したシーンでも、外を取り囲む警官をほとんど見せない。
それほど徹底していた。


今、読み返してみて、
〈私の原田眞人監督嫌いのルーツはここにあったのか……〉
と、妙に納得した。(笑)
若松孝二監督は、こうも言っている。

『突入せよ』を観たときにほんとに腹が立ってね。もうちょっと若かったら映画館に爆弾でも投げようってくらいに腹が立った。やっぱり何かを表現する人は権力側から撮っちゃいけない、というのが僕のポリシーなんでね。

原田眞人監督がもてはやされている“今”という時代は、
民衆にとっては、やはり危惧すべき時代ということになる。
この原田眞人監督とは真逆の立ち位置にいたのが、若松孝二監督と言えるだろう。

若松孝二の死から6年。
若松プロダクションが再始動し、制作した映画が公開された。
『止められるか、俺たちを』である。
何者かになることを夢みて「若松プロダクション」の門を叩いた、
吉積めぐみという若き女性の目を通し、
若松孝二ら映画人たちが駆け抜けた時代や彼らの生き様を描いた作品で、
監督は、若松プロ出身の白石和彌。


白石和彌監督作品『サニー 32』で鮮烈な印象を残した門脇麦が、
主人公となる助監督の吉積めぐみを演じ、
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』など、
若松監督作品に出演してきた井浦新が、若き日の若松孝二役を演じている。
はたしてどんな作品になっているのか……
ワクワクしながら、映画館へ駆けつけたのだった。



1969年、春。
21歳の吉積めぐみ(門脇麦)は、


新宿のフーテン仲間のオバケこと秋山道男(タモト清嵐)に誘われて、


「若松プロダクション」の扉をたたいた。
当時、若者を熱狂させる映画を作りだしていた「若松プロダクション」。
そこは、ピンク映画の旗手・若松孝二(井浦新)を中心とした、新進気鋭の若者たちの巣窟であった。
小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生(山本浩司)、
冗談ばかり言いつつも全てをこなす助監督のガイラこと小水一男(毎熊克哉)、
飄々とした助監督で脚本家の沖島勲(岡部尚)、
カメラマン志望の高間賢治(伊島空)、
インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦(藤原季節)など、
映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。


撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトする。
撮影がはじまれば、助監督はなんでもやる。


現場で走り、 怒鳴られ、時には役者もやる。
〈映画を観るのと撮るのは、180度違う……〉
めぐみは、若松孝二という存在、なによりも映画作りに魅了されていく。


しかし万引きの天才で、めぐみに助監督の全てを教えてくれたオバケも
「エネルギーの貯金を使い果たした」
と、若松プロを去っていった。
めぐみ自身も何を表現したいのか、何者に なりたいのか、何も見つけられない自分への焦りと、全てから取り残されてしまうような言いようのない不安に駆られていく。
1971年5月カンヌ国際映画祭に招待された若松と足立は、
そのままレバノンへ渡ると日本赤軍の重信房子らに合流し、撮影を敢行。
帰国後、映画『PFLP世界戦争宣言』の上映運動の為、
若松プロには政治活動に熱心な若者たちが多く出入りするようになる。
いままでの雰囲気とは違う、入り込めない空気を感じるめぐみ。
ひとり映画館で若松孝二の映画を観ているめぐみは、
気付かない内に頬を伝う涙に戸惑うのだった……




映画通の間では、とても評価が高く、
『キネマ旬報』のレビューでも高評価だったので、
かなり期待して見たのだが、
私にとっては、特別の作品にはならなかった。
〈なぜ、私にとっては特別の作品にはならなかったのだろう……〉
と思いながら、白石和彌の年齢を調べてみたら、
1974年12月17日生まれの43歳。(2018年10月現在)
映画は1969年から始まり、
1970年代を舞台とし、若き日の若松孝二を描いている。
1974年生まれの白石和彌監督は、まだ生まれてさえいなかったのだ。
若松プロ出身ということで、
なんとなく若松孝二のすべてを知っているような錯覚を私はしていた。
白石和彌監督は若松孝二監督の晩年に数作関わっていただけなのだ。
だからだろう、1970年代の雰囲気がまるで描けていなかったのだ。
白石監督と1歳違いの冨永昌敬監督が、
末井昭の奔放な文化的叛逆ぶりを、
ほぼ同じ時代設定で描いた傑作『素敵なダイナマイトスキャンダル』とは、
好対照ともいうべき作品なっていた。
その原因は、キャスティングにもあるだろう。
若松孝二監督は、生涯、
反権威、反権力の精神を貫き、スキャンダリストとして名をはせたが、
自身の映画にキャスティングした俳優は、映画バカとも言えるような純粋な青年が多かった。
映画の内容が特異なだけに、純粋無垢な青年が狂気にかられていく様を描く方が、より刺激的であったし、よりスキャンダラスであったのだ。
その若松孝二監督作品によく出演していた俳優に、
若松孝二監督およびそのスタッフたちを演じさせていたのが、
映画ファン(若松孝二監督ファン)には堪らないのだろうが、
私には物足りなかった。
若松プロという“梁山泊”に集った当時のスタッフは、
世間の常識を逸脱したような人物ばかりなので、


若松孝二を演じた井浦新をはじめ、


その他のスタッフを演じた俳優陣も、うわべを真似しただけの演技で、
安っぽい再現VTRのようで、やや滑稽であった。


白石和彌監督は、若松プロ出身者だけのオールスター作品にしたかったそうだが、
そのことによって、この作品は傑作になりそこねている。


いつもはリリー・フランキーやピエール瀧など、
俳優らしくない面構えのキャラクターを揃える白石和彌監督なのに、らしくない。
では、これだけ「不満たらたら」なのに、
私が、なぜ、このレビューを書いているかと言えば、
(若松プロ出身ではない)吉積めぐみを演じた門脇麦が、かなり頑張っていたからだ。


若松プロ出身者の中にあって、孤軍奮闘していたと言っていい。
この門脇麦の頑張りがなかったならば、この作品の出来は悲惨なものになっていたであろう。
この作品で唯一成功している部分は、
この吉積めぐみを主人公に据え、
その主人公を門脇麦が演じていることにある。


なので、私にとってこの映画は、
若き日の若松孝二監督を描いた作品というより、
門脇麦を目撃した映画として記憶に残ると思う。
門脇麦のファンなら、必見の映画と言えるだろう。
ぜひぜひ。

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