一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

一人読書会③『個人的な体験』(大江健三郎)……日本現代文学の新たな始まり……

2024年09月02日 | 一人読書会


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新しいカテゴリー「一人読書会」の第3回は、
大江健三郎の長編小説『個人的な体験』。




まだ老眼鏡やルーペに頼らずとも(裸眼で)小さい活字も読めることもあって、
この「一人読書会」で読む小説は、(電子書籍などではなく)紙の本にこだわっていて、
第1回の『オリンポスの果実』は、昭和に刊行された(活字の小さい)新潮文庫で、
第2回の『太陽の季節』は、芥川賞受賞時の雑誌「文藝春秋」の(活字の小さい)誌面をそのまま転載した「文藝春秋」(2022年4月号)で読んだ。
第3回の『個人的な体験』は、刊行当時の(これまた活字の小さい)本で読みたい。
本作は、新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」の一冊として函入りで出版されていて、
私が所持しているのは、なんと、その初版本。(昭和39年8月25日発行)


昭和39年当時は、私はまだ10歳だったし、
本を本格的に読むようになったのは、高校1年生から(昭和45年頃から)なので、
刊行当時に買ったものではなく、後から手に入れた初版本なのだが、
それほど(個人的に)大切に思っている作品であるし、
昔読んだ感動を思い出しながら読みたいと思う。

この初版本の函には、著者のメッセージと、

ぼくはすでに自分の言葉の世界にすみこんでいる様ざまな主題に、あらためて最も基本的なヤスリをかけようとした。すなわち、個人的な日常生活に癌のように芽ばえた異常を核にして、そのまわりに、欺瞞と正統、逃亡することと残りつづけること、みずからの死と他者の死、人間的な性と反・人間的な性というような命題を結晶させ、再検討することをねがったのである。大江健三郎


安部公房の推薦文が記されていて、(他に伊藤整、平野謙も)

大江健三郎は、またしても世間の禁止に大胆な挑戦をこころみた。従来、無邪気さの象徴として、しばしば天使もその姿をとってあらわれる、人間の誕生の姿に、彼はあえて悪魔の形相を刻みこんだのだ。しかも作者は、安全地帯から、この残酷をもてあそんでいるのではない。あくまでも人間回復のために、自己の全存在を賭けたものであり、その生々しい苦闘の汗しぶきに、思わず額をぬらされる思いをするにちがいない。だが、その汗しぶきも、やがては読者自身の汗しぶきに変ることだろう。セックスと、死と、誕生から無関係でいられる人間はありえないのだから。目をそむけずに、この嬰児殺しの残酷に耐ええたものにだけ、悪魔でも天使でもない、人間誕生そのものに立会える資格が与えられるのである。人間の誕生とは、むろん、世界のなかにまかれた明日の種子のことである。


この著者自身と安部公房の文章を常に目にしながら本書を読み進めることを、
(読者としての当時の私を思い出すために)私自身が希求し、切望したのだ。

では、早速、読んでみよう。


かれの名は、鳥(バード)。
かれが鳥(バード)という渾名でよばれるようになったのは15歳の頃だった。
それ以来かれはずっと鳥(バード)だ。
25歳で結婚し、現在27歳4か月の予備校講師・鳥(バード)は、
洋書店でアフリカの地図を選びながら、子供が誕生するのを待っている。
そのうち、若者らに絡まれ、殴られ、自宅に帰った明け方、電話のベルで目覚める。
「すぐに病院にきてください。赤ちゃんに異常がありますから、御相談します」
駆けつけた鳥(バード)に、院長は、
赤んぼうは「脳ヘルニア」であり、大学病院へ移るように勧める。
救急車に同乗した若い医師は、
赤んぼうは視力も聴力も痛みも感じない、植物的な存在だと言う。
包帯を頭に巻いた息子を目にした鳥(バード)は、
戦場で負傷したアポリネールを連想し、戦死者のように埋葬してやらねばと涙を流す。
卒業した官立大学の恩師で、私立大学の教授をしている義父に事態の報告に行き、
ウイスキーを一瓶もらった鳥(バード)は、しばし解放されようと、
大学時代のクラスメイトで、一度だけ肉体関係を持ったことのある火見子の家に向かう。
火見子の結婚相手は、ある朝、縊死していた。
知的な背景を共有する二人は、昼間から酒に酔い、生と性をめぐる諧謔的なやりとりをする。
鳥(バード)との交わりが初体験だったと告白する火見子は、今や性のつわもので、
真紅のスポーツカーを乗り回す寛容な女だった。
大学病院では、赤んぼうは猛然と生きはじめていたが、
正常に育つ見込みが薄いのならば、手術は望まないと鳥(バード)は意思表示し、
医師は、ミルクの量を塩梅し、砂糖水を与える場合もあると応じる。
深刻な状況を知らされぬ入院中の妻は、見舞いに来た鳥(バード)の欺瞞を直観する。
深夜、火見子の家で、ソヴィエトが核実験を再開したことをニュースで知る。
だが、もはや特別な印象を受けない鳥(バード)は、
「いまのぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない」
と考える。
所属するスラブ語研究会は核実験の抗議集会を控えて忙しく、
鳥(バード)は、日本人の少女と同棲し始めたというバルカン半島某国の外交官「デルチェフさん」を公使館に戻るように説得する役割を引き受ける。
面会したデルチェフさんは、
「生命を拒否するエゴイズムが許されるかね?」
と、鳥(バード)に「希望」という言葉を書きつけて母国語の辞書を渡す。
そして、ついに、病院から呼び出しの電話がかかってくる。
赤んぼうは手術に耐える体力を備えつつあるという宣告だった。
鳥(バード)は即座に赤んぼうを引き取り、火見子の友人の医者に始末してもらうことにする。
手続き上、付けた名前は「菊比古」。
鳥(バード)が地方都市に住んでいた時代、東京へ出奔した友人の名だ。
無き止まぬ赤んぼうを乗せた火見子の車は、なかなか病院にたどりつけない。
ようやく医者に託し、火見子が知っているゲイバー「菊比古」へ向かった鳥(バード)は、
そこで旧友との再会を果たす。
その直後、鳥(バード)が最初のウイスキーを飲み干すと、
彼の体の奥底で、なにかじつに堅固で巨大なものがむっくり起きあがる。
鳥(バード)は、赤んぼうをつれ戻して手術を受けさせる決心を火見子に伝え、
病院へ急ぐのだった……




高校生のときに初めて読んで、
初期の短編集『死者の奢り』や長編『芽むしり仔撃ち』などと違って、
〈随分と題材も文体も変わったな……〉
という印象を受けた。
それまでは、大江健三郎自身が『死者の奢り』の後書きに記していたように、
「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題」
であった。これは卒論で研究対象としたサルトルなどの影響があったものと思われる。
文体はピエール・ガスカール(渡辺一夫、佐藤朔、二宮敬訳)に酷似していた。
表現そのものは新鮮であったが、題材も文体も、どこか借り物の印象もあった。
だが、『個人的な体験』では、
題材は、個人的な体験から生み出された切実なものであり、
文体は、それまでの読みやすい滑らかなものではなく、
ゴツゴツとして少々読み難くなっていた。その分、より個性的になっていた。
初期作品においては、まず、
閉塞した社会状況に抵抗し、そこから脱出しようとする若者たちを描いたのであるが、
本作『個人的な体験』では、状況から逃げるのではなく、
積極的に引き受けるようとする成熟が感じられ、自立した青年像を提示していた。
現在作曲家として知られる長男・光の誕生をきっかけとして生まれたこの作品は、
その後の大江と光の親子関係の発展をたどっていく一連の物語の出発点でもあり、
日本の現代文学の新たな始まりにもなっていたと気づかされる。
今、読み返してみると、本作はそれほど重要な作品であったのだ。



先程、本作の「あらすじ」を紹介したが、
実は、あの後に、(二つのアステリスク)「**」の後に2000字ほどの文章が続く。
それは、大学病院で頭部の手術を終えて退院する赤んぼうを囲む鳥(バード)夫妻、義父母の穏やかで幸福そうな一場面なのだが、当時、このエンディングが各方面から批判されることになるのである。
この結末を真っ先に論じたのは三島由紀夫で、
「暗いシナリオに明るい結末を与えなくちゃいかんよと命令する映画会社の重役みたいなものが氏の心に住んでいるのではあるまいか?」
と批判したことから、
それに追随するように江藤淳、亀井勝一郎などからも否定的な評が出た。
実は、英訳に際しても、この部分が問題になり、
「そこを書き直してもらいたい」という申し出があったとか。
大江健三郎はそれを断っているのだが、
かようにこのエンディング部分は問題になったということだ。
そこで、どこがどう問題だったのか、
この2000字ほどのエンディング部分を書き写してみたい。


**
秋のおわりだった。鳥(バード)が、脳外科の主任に退院の挨拶をして戻ってくると、赤んぼうを抱いた妻を囲んで、特児室の前に鳥(バード)の義父と義母が微笑しながら待ちうけていた。
「おめでとう、鳥(バード)、きみに似ているね」と義父が声をかけた。
「そうですね」と鳥(バード)はひかえめにいった、赤んぼうは手術して一週間たつと人間に近づき、次の一週間で、鳥(バード)に似てきた。「頭のレントゲン写真を借りてきましたから、帰ってからおみせしますが、頭蓋骨の欠損は、ほんの数ミリ程度の直径のもので、いま現にふさがりつつあるそうです。脳の実質が外に出てしまっていたのではなく、したがって脳ヘルニアではなく、単なる肉腫だったんですね。切りとった瘤のなかにはピンポン球みたいに白く硬いものが二箇はいっていたそうです」
「手術が成功して本当によかった」と饒舌な鳥(バード)の言葉の切れめを狙って義父はいった。
「手術が永くかかって輸血をくりかえしたとき、鳥(バード)は幾度も自分の血を提供したので、とうとうドラキュラに咬まれたお姫様みたいに青ざめましたよ」と上機嫌でめずらしくユーモラスに義母がいった。「鳥(バード)は、獅子奮迅の活躍でした」
赤んぼうは環境の急変におびえてじっと竦んだように黙りこみ、まだほとんど視力のない筈の眼で大人たちの様子をうかがっていた。鳥(バード)と教授は、くりかえし赤んぼうをのぞきこむので、ついにかれらより遅れてしまう女たちの数歩先を話しあいながら歩いた。
「きみは今度の不幸をよく正面からうけとめて戦ったね」と教授はいった。
「いや、ぼくはたびたび逃げだそうとしました。ほとんど逃げだしてしまいそうだったんです」と鳥(バード)はいった。それから思わず怨めしさをおしころしたような声になりながら、「しかし、この現実生活を生きるということは、結局、正統的に生きるべく強制されることのようです。欺瞞の罠におちこむつもりでいても、いつのまにか、それを拒むほかなくなってしまう、そういう風にですね」
「そのようにではなく現実生活を生きることもできるよ、鳥(バード)。欺瞞から、欺瞞へとカエル跳びして死ぬまでやっていく人間もいる」と教授はいった。
鳥(バード)はちょっと眼をつむり、数日前アフリカのザンジバル行きの貨物船に乗りこんだ火見子の脇の、あの少年じみた男のかわりに、赤んぼうを殺した鳥(バード)自身が乗りこんでいる、充分に誘惑的な地獄の眺めをえがいてみた。火見子のいわゆるもうひとつ別の宇宙ではそのような現実が展開しているわけなのかもしれない。それから鳥(バード)は、かれ自身の選んだ、こちらがわの宇宙の問題にたちかえるべく、眼をひらいてこういった。
「赤んぼうは正常に育つ可能性もありますが、I・Qのきわめて低い子供に育つ可能性もおなじくあります。ぼくは赤んぼうの将来の生活のためにも働いておかなければなりません。もちろん、先生に新しい仕事の世話をしていただこうとは考えておりません。あのような失敗のあとでは、それはやはり先生の側からも、ぼくの側からも、許容される限界を越えたことだと思います。ぼくは、予備校や大学の講師という、一応上向きの段階のあるキャリアとはすっかり縁をきるつもりなんですよ。そして、外国人の観光客相手のガイドをやろうと思います。ぼくはアフリカに旅行して現地人のガイド役を傭う夢をもっていましたが、逆に日本へやってくる外国人のための、現地人のガイド役をやろうと思うわけです」
教授は鳥(バード)に答えようとしたが、その時、渡り廊下をいっぱいに占領して若者たちの一群がやってきたので、かれらは脇によけて若者たちをやりすごさねばならなかった。若者たちは大仰に腕を吊ったひとりの仲間をかこみ鳥(バード)たちを全然無視して通りすぎて行った。かれらはみな、着くたびれて薄汚れ、この季節にはもううろ寒げな竜の刺繍のジャンパーを着こんでいた。そこで鳥(バード)はその若者たちが、赤んぼうの生れつつあった夏のはじめの真夜中、かれと闘ったグループであることに気づいた。
「ぼくはいまの連中を知っているんですが、なぜだか、かれらはぼくにまったく注意をはらわなかったようですね」と鳥(バード)はいった。
「きみはここ数週間ですっかり変ってしまった感じだから、そのせいだろう」
「そうでしょうか?」
「きみは変わってしまった」と教授が幾らかは愛惜の念もこもっている、あたたかい肉親の声でいった。「きみにはもう、鳥(バード)という子供っぽい渾名は似合わない」
鳥(バード)は、赤んぼうを囲んでなおも熱中して話しあいながらかれらに追いついてくる女たちを待ちうけ、妻の腕にまもられた息子の顔を覗きこんだ。鳥(バード)は赤んぼうの瞳に、自分の顔をうつしてみようと思ったのだった。赤んぼうの眼の鏡は、澄みわたった深いにび色をして鳥(バード)をうつしだしたが、それはあまりにも微細で、鳥(バード)は自分の新しい顔を確かめることができなかった。家にかえりついたならまず鏡をみよう、と鳥(バード)は考えた。それから鳥(バード)は、本国送還になったデルチェフさんが、扉に《希望》という言葉を書いて贈ってくれたバルカン半島の小さな国の辞書で、最初に《忍耐》という言葉をひいてみるつもりだった。




このラストの部分だけ文体が変わった……というのは大袈裟だと思うが、
確かにホームドラマのようなハッピーエンディングという展開に、
戸惑う読者も多かったことと思う。
これは大江健三郎自身も気になっていたようで、
後年、自伝的な長編『懐かしい年の手紙』でラストの書き直し案を作中で提示している。
語り手で作家の「Kちゃん」が敬愛するギー兄さんから、〈削除してもいいと思う部分〉をわざわざ線で消した本のページが送られてくるという強烈な印象を残す場面があるのだ。



**
秋のおわりだった。鳥(バード)が、脳外科の主任に退院の挨拶をして戻ってくると、赤んぼうを抱いた妻を囲んで、特児室の前に鳥(バード)の義父と義母が
微笑しながら待ちうけていた。
おめでとう鳥(バード)、きみに似ているね」と義父が声をかけた。
「そうですね」と鳥(バード)はひかえめにいった、赤んぼうは手術して一週間たつと人間に近づき、次の一週間で、鳥(バード)に似てきた。
「頭のレントゲン写真を借りてきましたから、帰ってからおみせしますが、頭蓋骨の欠損は、ほんの数ミリ程度の直径のもので、いま現にふさがりつつあるそうです。脳の実質が外に出てしまっていたのではなく、したがって脳ヘルニアではなく、単なる肉腫だったんですね。切りとった瘤のなかにはピンポン球みたいに白く硬いものが二箇はいっていたそうです」
「手術が成功して本当によかった」と饒舌な鳥(バード)の言葉の切れめを狙って義父はいった。
「手術が永くかかって輸血をくりかえしたとき、鳥(バード)は幾度も自分の血を提供したので、とうとうドラキュラに咬まれたお姫様みたいに青ざめましたよ」と上機嫌でめずらしくユーモラスに義母がいった。「鳥(バード)は、獅子奮迅の活躍でした」

赤んぼうは環境の急変におびえてじっと竦んだように黙りこみ、まだほとんど視力のない筈の眼で大人たちの様子をうかがっていた。


このことに対して、大江健三郎は、『大江健三郎 作家自身を語る』という本で、


次のように語っている。

日本の古典にある「見せ消ち」の手法をもじってやりました。もちろん小説のできとしていまも最後の部分に問題点があるなって感じは持つんですよ。しかしね、もしあの時生きていくこと自体困難な状況に子供を置いて、横に絶望している青年を置いて小説を終わったとしますね、そしていま現在、その小説を私が読み返すとすると、どんなに自分を、子供との実際の共同生活への内面の希望̶̶を裏切っている作家と感じただろうか、と思うんです。現実に生きている子供に対して、まともに向き合うことをしない人間として、いま自分を発見してるんじゃないか。
(中略)
障害を持つ子供と生きていくという現実がある。それを文学にとりあげて、小説にして自分が提出する。するとその小説そのものが、その後の自分自身の生き方に対する支えを、こちらに送り返してくれた。現にそのようにして、いまの光と私らの共同生活があります。それが小説の不思議ってことだと思うんです。




事実、『個人的な体験』以降の大江健三郎作品は、好い意味で変貌を遂げる。
そのターニングポイントになった作品であるし、
本作が、「世界的な作家」になるスタート地点であったことが今になって解る。



大江健三郎は、『個人的な体験』を執筆する前に、
「空の怪物アグイー」という短編を書いており、


この小説には、後頭部に大きな瘤を持って生まれてきた赤んぼうを、医師と共謀して殺してしまう夫婦が出てくる。
〈もし赤んぼうを見殺しにしたらどんな結末になるのか……〉
その実験を「空の怪物アグイー」で試みた上で、
その文学的な反措定(一般にある観念や言明に対立した反対の観念や言明)を踏まえながら、
今度はハッピーエンディングの作品『個人的な体験』を書いたとも言える。

知恵遅れの、障害をもった子供と共に生きていく、それがこれからの自分の人生だと、この小説を書くことで確認しようという気持ちを私はもっていた。そして、主人公が決意をするそのシーンを書いた。そうしたらすらすらと、その後の三ページくらいが書けたんです。つまりその子は何とか自分で食事したり、お手洗いに行ったりは出来るくらいに成長するだろう、そのようにして生き延びることはできるだろう、と医者から聞いたことを鳥(バード)は義父母にいう、そこで小説は終わっているんですね。(『大江健三郎 作家自身を語る』)


『個人的な体験』は、ジョン・ネイスンによって翻訳され、
世界文学として認知されるようになり、
ノーベル文学賞の受賞理由に記される作品(他に『万延元年のフットボール』『M/Tと森のフシギの物語』『懐かしい年への手紙』)になる。
そのネイスンの回想録『ニッポン放浪記』で紹介されていることであるが、


結末に対する疑問を伝えたところ、大江健三郎から次のような返信が来たという。

『個人的な体験』のラストには日本でもお手紙のような非難が集中しました。バーニーと相談された上で、結局それが良いと思われたなら、最期の*マークより後をとって下さい。僕は、新しく書きなおす意志がありません。決定はあなたとバーニーにまかせます。

結末は書きなおさないという決意は固いものの、
先程、私が書き写した**以降の2000字あまりのラストを、
削除することを受け入れる意志があったことが判る。
だが、ネイスンは、検討を繰り返した結果、**以降も訳出する。
〈削除しなくてよかった!〉
と、その後ネイスンは、繰り返しそう考えたという。



蛇足だが、
ネイスンは三島由紀夫の『午後の曳航』を翻訳しており、
その仕上がりに大いに満足した三島は、
ネイスンに対してノーベル賞の獲得に協力してほしいと述べて、
『絹と明察』の翻訳も依頼し、ネイスンもそれを内諾していたのだが、
大江健三郎の新作『個人的な体験』を読み、その出来に驚嘆したネイスンは、
『絹と明察』の翻訳を断って、『個人的な体験』を翻訳したという経緯がある。
(そのことによって三島とネイスンの関係は当然のことながら悪化した)
ノーベル文学賞を熱望した三島由紀夫であったが、
川端康成が受賞したことで三島のノーベル文学賞は絶望的となり、
後年、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞することになる。
本作の結末を批判した三島由紀夫と、結末を変えなかった大江健三郎。
ノーベル文学賞の受賞理由となる対象作品のひとつが、
ネイスンの翻訳した『個人的な体験』であったことに、
私は深い感慨をおぼえるのである。



『個人的な体験』の結末に関する(あまり良くない)批評ばかりを紹介したが、
もちろん、本書を高評価する学者も多く、
英文学者の篠田一士は、「文学界」(1965年3月号)で、


「この作品ほど劇的な契機を孕みながら、劇をことごとく拒み、またロマネスクの豊かな予感を与えながら、ロマネスクな瞬間をきびしく避けた小説を僕は外に知らない」
「筋書きなんかはどうでもよろしい、ちょうど詩作品を批評する場合に筋書きをどうして書くことができるだろうか」
「この小説は詩的な雰囲気や詩的な情景、あるいは詩的な道具立てにはきわめて乏しいが、言語の操作を詩的言語のそれに可能なかぎり接近させているという意味では、あきらかに正統的な詩的小説である」

と、詩的小説であることを強調している。
大江健三郎は、1994年、
「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている(who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)」
という理由で、ノーベル文学賞を受賞するが、
詩的な作品であることをいち早く指摘した篠田一士の先見性は、
もっと評価されてしかるべきであろう。



あらためて読み返してみると、本作『個人的な体験』もまた、
(開高健の言う)鮮烈な“一言半句”が濃密にひしめき合っている傑作であった。
文学を読む歓びを存分に味わわせてくれた。
近いうちに、大江健三郎の最高傑作といわれている『万延元年のフットボール』も採り上げてみたいと思っている。

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