佐賀には、「チネチッタ」という、映画館にかからない主に単館系の映画を月に1回程度上映している自主活動のグループがある。
映画の選定、配給会社との連絡、チラシやチケットの作成、ホームページ運営、上映会当日の受付など、すべてボランティアスタッフで運営されている。
1989年(平成元年)7月の第1回上映以来、約20年間上映会を実施している。
この「チネチッタ」の今月の上映会が、6月13日(金)に、イオンシネマ大和で、15時と19時からの2回行われた。
作品は若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』。
上映時間3時間10分。
この作品、以前より、どうしても見たいと思っていた。
この日の夜は用事があったので、15時の回しか見るチャンスがない。
そこで、会社の公休シフトを前月に作成する際、この日を私の休みにしておいた。
それほどまでして見る価値のある映画だと思った。
1972年2月、日本中がテレビに釘付けとなった。
5人の若者達が、長野県軽井沢にある「あさま山荘」に立て籠もり、警察との銃撃戦を展開したのだ。
彼らは、革命に自分達のすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。
あの時代、何が起きていたのか。
革命戦士を志した若者達は、なぜあそこまで追いつめられていったのか。
なぜ、同志に手をかけたのか。
なぜ、雪山を越えたのか。
なぜ、山荘で銃撃戦を繰り広げたのか。
この「あさま山荘事件」にいたる経緯を、内部の側の視点から徹底的にこだわって描いた映画が、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』である。
この「あさま山荘事件」については、事件から30年後の2002年に公開された原田眞人監督の『突入せよ!「あさま山荘」事件』がある。
事件当時、警察側の幕僚長だった佐々淳行の原作を映画化したもので、すべてを警察側から捉え、山荘内部は、全く描いていなかった。
この映画を若松監督が見たことが、映画制作のキッカケだったという。
あるインタビューで、若松監督はこう語っている。
「モノを表現するっていうことは、国家とか権力側から表現しちゃいけない。タブーなんだよ。芸術家なら、必ず弱者の目から世界を見ないとダメなんです」
その言葉通り、この映画は、すべて連合赤軍の若者達側から描かれている。
学生運動の始まりから、分裂・統合していった集団、山岳ベースでのリンチ事件、そしてクライマックスの「あさま山荘事件」に至るまでの、すべてをだ。
5人が立てこもる緊迫したシーンでも、外を取り囲む警官をほとんど見せない。
それほど徹底していた。
で、見た感想はというと……
3時間を超える作品なのに、息つく暇もなかった。
最初から最後まで、映像は見る者を捉えて離さない。
歴史を目撃させられているような感じなのだ。
実録というだけあって、「総括」という名のリンチの場面など、凄まじい程リアル。
目をそむけた人も多かったのではないだろうか。
怒り。
イライラ。
悲しみ。
虚脱感。
「喜び」以外のあらゆる感情が襲ってきた。
彼らは、特別の人間ではないと思った。
あと5年ないし10年早く生まれていたら、私自身もあの若者たちの中にいたかもしれないとも思った。
無名の俳優達の中に、坂井真紀という女優がキャスティングされていた。
最初はちょっと一人だけ浮いた感じがしていた。
それが次第に違和感がなくなり、なぜ彼女がこの作品に出ているのかが解った。
坂井真紀がなぜ「遠山美枝子」という女性を演じたかを納得させられる。
その他では、やはり「森恒夫」を演じた地曳豪、
それに、「永田洋子」を演じた並木愛枝の熱演が光る。
この映画について、語るべきことは多い。
限りなく多い。
きりがないほどに――。
だが、その前に、多くの日本人が、この映画を見るべきだろう。
いや、目撃するべきだろう。
すべては、それからのような気がする。
目撃せよ!
ここに歴史がある!
映画の選定、配給会社との連絡、チラシやチケットの作成、ホームページ運営、上映会当日の受付など、すべてボランティアスタッフで運営されている。
1989年(平成元年)7月の第1回上映以来、約20年間上映会を実施している。
この「チネチッタ」の今月の上映会が、6月13日(金)に、イオンシネマ大和で、15時と19時からの2回行われた。
作品は若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』。
上映時間3時間10分。
この作品、以前より、どうしても見たいと思っていた。
この日の夜は用事があったので、15時の回しか見るチャンスがない。
そこで、会社の公休シフトを前月に作成する際、この日を私の休みにしておいた。
それほどまでして見る価値のある映画だと思った。
1972年2月、日本中がテレビに釘付けとなった。
5人の若者達が、長野県軽井沢にある「あさま山荘」に立て籠もり、警察との銃撃戦を展開したのだ。
彼らは、革命に自分達のすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。
あの時代、何が起きていたのか。
革命戦士を志した若者達は、なぜあそこまで追いつめられていったのか。
なぜ、同志に手をかけたのか。
なぜ、雪山を越えたのか。
なぜ、山荘で銃撃戦を繰り広げたのか。
この「あさま山荘事件」にいたる経緯を、内部の側の視点から徹底的にこだわって描いた映画が、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』である。
この「あさま山荘事件」については、事件から30年後の2002年に公開された原田眞人監督の『突入せよ!「あさま山荘」事件』がある。
事件当時、警察側の幕僚長だった佐々淳行の原作を映画化したもので、すべてを警察側から捉え、山荘内部は、全く描いていなかった。
この映画を若松監督が見たことが、映画制作のキッカケだったという。
あるインタビューで、若松監督はこう語っている。
「モノを表現するっていうことは、国家とか権力側から表現しちゃいけない。タブーなんだよ。芸術家なら、必ず弱者の目から世界を見ないとダメなんです」
その言葉通り、この映画は、すべて連合赤軍の若者達側から描かれている。
学生運動の始まりから、分裂・統合していった集団、山岳ベースでのリンチ事件、そしてクライマックスの「あさま山荘事件」に至るまでの、すべてをだ。
5人が立てこもる緊迫したシーンでも、外を取り囲む警官をほとんど見せない。
それほど徹底していた。
で、見た感想はというと……
3時間を超える作品なのに、息つく暇もなかった。
最初から最後まで、映像は見る者を捉えて離さない。
歴史を目撃させられているような感じなのだ。
実録というだけあって、「総括」という名のリンチの場面など、凄まじい程リアル。
目をそむけた人も多かったのではないだろうか。
怒り。
イライラ。
悲しみ。
虚脱感。
「喜び」以外のあらゆる感情が襲ってきた。
彼らは、特別の人間ではないと思った。
あと5年ないし10年早く生まれていたら、私自身もあの若者たちの中にいたかもしれないとも思った。
無名の俳優達の中に、坂井真紀という女優がキャスティングされていた。
最初はちょっと一人だけ浮いた感じがしていた。
それが次第に違和感がなくなり、なぜ彼女がこの作品に出ているのかが解った。
坂井真紀がなぜ「遠山美枝子」という女性を演じたかを納得させられる。
その他では、やはり「森恒夫」を演じた地曳豪、
それに、「永田洋子」を演じた並木愛枝の熱演が光る。
この映画について、語るべきことは多い。
限りなく多い。
きりがないほどに――。
だが、その前に、多くの日本人が、この映画を見るべきだろう。
いや、目撃するべきだろう。
すべては、それからのような気がする。
目撃せよ!
ここに歴史がある!
又々 拙いコメントを
浅間山荘事件は 何も仕事もせずと言うか出来なかった、TVに釘付け 街の中は人通りも無く、
TV中継をハラハラして見ていました、危ない!と
思ってドキドキしていたら 指揮官が
銃で撃たれ 即死 号泣しながら タンカで運ぶ、
夕方近くまで中継があり あまりの惨さに
私は 体調を崩しました その頃の事件は皆さんあまいご存知ないでしょう その内又リンチ事件etc
お話しましょう
この事件があった時、私は高校二年生でした。
突入の様子は、テレビで生中継され、私も見た記憶があります。(あるいは夜のニュースだったかも?)
資料によると、その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録したとのこと。
人質救出の瞬間は民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率90%弱。
同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。
これは2000年代に入った現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録だそうです。
つまり、当時の日本人のほとんどが見ていたということです。
ただ、見ていたといっても、TV画面を通して見ただけであって、山荘内部で何があっていたのかは知らされていませんでした。
この映画では、それを描いています。
そして、「あさま山荘」事件に至るまでの道程も……。
とにかく凄い映画です
今でも、関東の山の本を眺めていると、当時のことが頭に浮かびます。
という私はノンポリでした。
この連合赤軍による事件が発覚するまで、高校生の私は学生運動というものに甘い幻想を抱いていました。
1971年の5月に出版された『二十歳の原点』(高野悦子)という本があります。
1969年に二十歳で自殺した立命館大学の学生であった高野悦子さんの日記です。
当時、ベストセラーになりましたので、記憶されている方も多いと思います。
これを読んだ私は、高野悦子さんに対する憧れと同時に、学生運動に対してもなんとなく共感をおぼえておりました。
国や大学の不正に対する若者の情熱のようなものを感じていました。
それが1972年に起きた連合赤軍による一連の事件で、私の幻想は打ち砕かれました。
>「浅間山荘」は、終焉。当時も今もそう思っています。
この「あさま山荘」立てこもり事件の後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は急速に失速していきました。
ある意味、いろんなことの「終焉」だったかもしれません。
映画を見れば解りますが、あの学生たちも、最初は国や大学を憂う純粋な若者でした。
夢や希望を持って、社会を変えようとするひたむきな青年たちでした。
どこにでもいる普通の若者たちでした。
それが、いろいろなものから追いつめられていくうちに、同志に手をかけ、銃撃戦を繰り広げ、日本を騒然とさせるに至りました。
この映画は、シネコンなどでの上映はほとんどないと思いますが、いつかどこかで見る機会があったら、ぜひ見てみて下さい。
それが、あの激動の時代――彼らと同時代を生きた我々の義務のように感じました。
『二十歳の原点』の高野悦子さんが自殺したのが1969年(昭和44年)の6月24日。
今年も彼女の命日が近づいてきました。
人生に「たられば」はありませんが、もし彼女が生きていれば……もう58歳です。
もし彼女が生きていたら、国や社会に対して無関心・無気力な若者が多いこの国の今の現状を、どう思ったでしょうか――。
毎年6月下旬になると、私はそんなことを考えてしまいます。