旧波止浜街道(本町5丁目)から本町6丁目付近を望む。大正期の地図では現「松月堂」までの道沿いが北新町で高野山真言宗「理性院神供寺」より先が慶応町となっている。
慶応の名を冠した公園(児童館が隣接)は5丁目側にあるのだが、余所者の私には詳しい区分がよく分からない。周近は空襲の被害を免れている。参考までに『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県』の解説を引用する。
きたしんまち 北新町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和48年の町名。江戸期は今治藩の城下今治町の町名。今治城下8町の1つ。寛永12年松平定房入封後の元禄年間までに成立した町。町名のとおり本町4丁目の北に続き,波止浜街道に沿って作られた。元禄13年「北新町寸間改帳」には東ノ輪・西ノ輪と見え,のち1~2丁目となる。当時は茶屋・油屋・畳屋などのわずかな町家があるのみで,大半は百姓屋敷であったが,江戸中期以後町家と職人が増加し,安政6年には小松屋小次郎ら3名の町年寄の名が見える。延宝8年の人口122,明治13年の戸数141・人口607。慶応年間,当町北部に慶応町が成立。明治18~22年今治を冠称。同22年今治町の大字,大正9年からは今治市の町名となる。昭和48年現行の本町6丁目となる。
けいおうちょう 慶応町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和43年の通称町名。江戸期は今治村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち。城下町今治の中心本町から延びる北新町に続き,浅川までの通りで,波止浜街道に沿う。もと北新町のうちで,慶応年間に発展した町。明治13年「越智郡地誌」に慶応橋が見える。明治末期,通りの両側は家屋が並んでおり,第二丸今綿布の工場があった。大正初期,木原商店織布工場が創業,その後四国電力の今治火力発電所や多くの染色・タオル工場が立地して工業地区として発展した。現在の本町6~7丁目・室屋町7丁目のあたり。
辻を右折すると味のあるモルタル建築が残っていた。レトロな造りに横文字の店名がまた面白い。ここから海はすぐ近くである。
慶応の名を冠した公園(児童館が隣接)は5丁目側にあるのだが、余所者の私には詳しい区分がよく分からない。周近は空襲の被害を免れている。参考までに『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県』の解説を引用する。
きたしんまち 北新町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和48年の町名。江戸期は今治藩の城下今治町の町名。今治城下8町の1つ。寛永12年松平定房入封後の元禄年間までに成立した町。町名のとおり本町4丁目の北に続き,波止浜街道に沿って作られた。元禄13年「北新町寸間改帳」には東ノ輪・西ノ輪と見え,のち1~2丁目となる。当時は茶屋・油屋・畳屋などのわずかな町家があるのみで,大半は百姓屋敷であったが,江戸中期以後町家と職人が増加し,安政6年には小松屋小次郎ら3名の町年寄の名が見える。延宝8年の人口122,明治13年の戸数141・人口607。慶応年間,当町北部に慶応町が成立。明治18~22年今治を冠称。同22年今治町の大字,大正9年からは今治市の町名となる。昭和48年現行の本町6丁目となる。
けいおうちょう 慶応町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和43年の通称町名。江戸期は今治村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち。城下町今治の中心本町から延びる北新町に続き,浅川までの通りで,波止浜街道に沿う。もと北新町のうちで,慶応年間に発展した町。明治13年「越智郡地誌」に慶応橋が見える。明治末期,通りの両側は家屋が並んでおり,第二丸今綿布の工場があった。大正初期,木原商店織布工場が創業,その後四国電力の今治火力発電所や多くの染色・タオル工場が立地して工業地区として発展した。現在の本町6~7丁目・室屋町7丁目のあたり。
辻を右折すると味のあるモルタル建築が残っていた。レトロな造りに横文字の店名がまた面白い。ここから海はすぐ近くである。