大西駅の西側に出て線路に沿って北東へ進むと「俺のらーめん」の北側に「新町第二集会所」があった。建物の端の方が「三穂神社(みほじんじゃ)」になっている。
![集会所](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/38/1b8f56814f0e2c1303e1e94a5ba4b9a3.jpg)
![石灯籠](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/22/e15e1980d7ea1cac98ca5b2c58d56e07.jpg)
![説明板](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/a7/75a215a0842bb48b958341973f5dcb8e.jpg)
石灯籠のそばに設置された説明板の記述に目を通して松山藩にとっては非常に重要な場所だったことを知った。地元の人のブログに掲載された昔の写真から判断すると以前神社は現在の「セブン‐イレブン大西町新町店」前辺りに鎮座していたと思われる。
政所由緒沿革
平成19年前後、数年をかけ株式会社新来島どっく工場用地拡張の為、永年住み慣れた政所の住民十六軒の移転が余儀なくされた。
此の地は、野間郡のほぼ中央に位置し、藩政時代に代官所や御蔵元が置かれたことから戸口も増え、神原村・現在の紺原から分村し新町村が生まれたと伝えられ、この地域を番所と呼び、政所の語源ともなっている。また大きな松の古木があったことから、通称大松(新町甲一〇九四番地)の名で親しまれていた。この付近に大井御蔵元があり、新町他十四ヶ村の年貢米が収納されていた。収納米の管理には代々地域の庄屋が命ぜられてきた。 時代の変遷と共にいつの日か (時代不詳) この地に蛭子の宮の祠が祀られ「おえべっさん」の名で周辺の人々の信仰を集め蛭子の宮の祠と共に人々の安らぎの場となっていた。
この蛭子の宮は 明治三年、三穂神社と改号された。
文政三年 (1820) 波止浜塩田騒動が起き、藩庁では暴動に加わった首謀者や浜子らを逮捕し大井蔵元に送り、この代官所で過酷な取り調べがなされた事などが伝えられている。
昭和十九年「波止浜船渠株式会社」により造船所の建設が始まったが翌二十年終戦となり建設は中止され、昭和三十年三月三十一日 町村合併 (大井村・小西村) となり、昭和三十六年来島船渠株式会社を誘致し同年八月から跡地のドックを利用し大西工場建設に着手。
昭和四十二年周辺の人々による浄財により前身の三穂神社の社が新築され其の後、昭和五十八年地域住民の寄り合いの場として、新町により政所中原集会所が新築された。
平成二十一年是れら歴史あるすべての土地建物も移転余儀なく、平成二十二年三月新町により現在地に新築移転されるに至った。
私達は此れら由緒ある政所の沿革を、後世に伝えていきたいと思う。
平成二十二年三月 新町
![集会所2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/e2/5de7bfba30aa0c27bf4cb23101163807.jpg)
![集会所](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/38/1b8f56814f0e2c1303e1e94a5ba4b9a3.jpg)
![石灯籠](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/22/e15e1980d7ea1cac98ca5b2c58d56e07.jpg)
![説明板](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/a7/75a215a0842bb48b958341973f5dcb8e.jpg)
石灯籠のそばに設置された説明板の記述に目を通して松山藩にとっては非常に重要な場所だったことを知った。地元の人のブログに掲載された昔の写真から判断すると以前神社は現在の「セブン‐イレブン大西町新町店」前辺りに鎮座していたと思われる。
政所由緒沿革
平成19年前後、数年をかけ株式会社新来島どっく工場用地拡張の為、永年住み慣れた政所の住民十六軒の移転が余儀なくされた。
此の地は、野間郡のほぼ中央に位置し、藩政時代に代官所や御蔵元が置かれたことから戸口も増え、神原村・現在の紺原から分村し新町村が生まれたと伝えられ、この地域を番所と呼び、政所の語源ともなっている。また大きな松の古木があったことから、通称大松(新町甲一〇九四番地)の名で親しまれていた。この付近に大井御蔵元があり、新町他十四ヶ村の年貢米が収納されていた。収納米の管理には代々地域の庄屋が命ぜられてきた。 時代の変遷と共にいつの日か (時代不詳) この地に蛭子の宮の祠が祀られ「おえべっさん」の名で周辺の人々の信仰を集め蛭子の宮の祠と共に人々の安らぎの場となっていた。
この蛭子の宮は 明治三年、三穂神社と改号された。
文政三年 (1820) 波止浜塩田騒動が起き、藩庁では暴動に加わった首謀者や浜子らを逮捕し大井蔵元に送り、この代官所で過酷な取り調べがなされた事などが伝えられている。
昭和十九年「波止浜船渠株式会社」により造船所の建設が始まったが翌二十年終戦となり建設は中止され、昭和三十年三月三十一日 町村合併 (大井村・小西村) となり、昭和三十六年来島船渠株式会社を誘致し同年八月から跡地のドックを利用し大西工場建設に着手。
昭和四十二年周辺の人々による浄財により前身の三穂神社の社が新築され其の後、昭和五十八年地域住民の寄り合いの場として、新町により政所中原集会所が新築された。
平成二十一年是れら歴史あるすべての土地建物も移転余儀なく、平成二十二年三月新町により現在地に新築移転されるに至った。
私達は此れら由緒ある政所の沿革を、後世に伝えていきたいと思う。
平成二十二年三月 新町
![集会所2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/e2/5de7bfba30aa0c27bf4cb23101163807.jpg)