広島県道265号伴広島線を西北西の方角に進んで行く。途中から脇道に入り太田川放水路左岸の堤防道路に出た。
『西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後路 / 中国地域づくり交流会 西国街道ぶらり旅の会(2010年)』
広島城下の町は築城以来近代に至るまで、幾度となく水害にさらされて来た。
そのため、己斐町と福島町の間に流れる山手川と、福島川を統合し放水路をつくり、太田川に溢れる雨水をこの放水路に流して他の川の氾濫を防ぐ「太田川放水路」の計画は早くから立てられていた。昭和七年に国会の議決を経て、昭和九年から工事が始まったが、途中、戦争による中断もあり昭和四十年九月、着工以来三十三年の歳月を費やしようやく完成した。長い間の水害に悩んで来た広島にとっては、世紀の大工事であった。太田川放水路は川幅四百メートル、延長八キロメートルのゆったりとした川で、以後、広島の町を洪水から守っている。結果として七つの川が一つ減り六つとなった。「鯉はこいでもお城の鯉は、七つ川の瀬空から泳ぐ・・・」と親しまれた「広島音頭」も今では唄う人もなくなり、いつしか忘れ去られてしまったようだ。
土手道は非常に交通量が多い。私は猛スピードで走り去る自動車に注意しながらゆっくりと歩き【己斐橋東詰】交差点に到着したのだった。
『西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後路 / 中国地域づくり交流会 西国街道ぶらり旅の会(2010年)』
広島城下の町は築城以来近代に至るまで、幾度となく水害にさらされて来た。
そのため、己斐町と福島町の間に流れる山手川と、福島川を統合し放水路をつくり、太田川に溢れる雨水をこの放水路に流して他の川の氾濫を防ぐ「太田川放水路」の計画は早くから立てられていた。昭和七年に国会の議決を経て、昭和九年から工事が始まったが、途中、戦争による中断もあり昭和四十年九月、着工以来三十三年の歳月を費やしようやく完成した。長い間の水害に悩んで来た広島にとっては、世紀の大工事であった。太田川放水路は川幅四百メートル、延長八キロメートルのゆったりとした川で、以後、広島の町を洪水から守っている。結果として七つの川が一つ減り六つとなった。「鯉はこいでもお城の鯉は、七つ川の瀬空から泳ぐ・・・」と親しまれた「広島音頭」も今では唄う人もなくなり、いつしか忘れ去られてしまったようだ。
土手道は非常に交通量が多い。私は猛スピードで走り去る自動車に注意しながらゆっくりと歩き【己斐橋東詰】交差点に到着したのだった。