![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/f3/79f29e494dbbd3ab02e1a7c6316a5eb2.jpg)
広島県道265号伴広島線を西北西の方角に進んで行く。途中から脇道に入り太田川放水路左岸の堤防道路に出た。
![道2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/59/942b8945822d8481e7bcc7668ad64be0.jpg)
![堤防](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/01/b68f10166412c160aab33bf27e2e29a2.jpg)
![放水路](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/e3/40275b1d5498c0416dc1f4ad7781478c.jpg)
『西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後路 / 中国地域づくり交流会 西国街道ぶらり旅の会(2010年)』
広島城下の町は築城以来近代に至るまで、幾度となく水害にさらされて来た。
そのため、己斐町と福島町の間に流れる山手川と、福島川を統合し放水路をつくり、太田川に溢れる雨水をこの放水路に流して他の川の氾濫を防ぐ「太田川放水路」の計画は早くから立てられていた。昭和七年に国会の議決を経て、昭和九年から工事が始まったが、途中、戦争による中断もあり昭和四十年九月、着工以来三十三年の歳月を費やしようやく完成した。長い間の水害に悩んで来た広島にとっては、世紀の大工事であった。太田川放水路は川幅四百メートル、延長八キロメートルのゆったりとした川で、以後、広島の町を洪水から守っている。結果として七つの川が一つ減り六つとなった。「鯉はこいでもお城の鯉は、七つ川の瀬空から泳ぐ・・・」と親しまれた「広島音頭」も今では唄う人もなくなり、いつしか忘れ去られてしまったようだ。
土手道は非常に交通量が多い。私は猛スピードで走り去る自動車に注意しながらゆっくりと歩き【己斐橋東詰】交差点に到着したのだった。
![交差点](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/ee/d509ec8ddea7f5acbdc65b4c0e03df0c.jpg)
![道2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/59/942b8945822d8481e7bcc7668ad64be0.jpg)
![堤防](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/01/b68f10166412c160aab33bf27e2e29a2.jpg)
![放水路](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/e3/40275b1d5498c0416dc1f4ad7781478c.jpg)
『西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後路 / 中国地域づくり交流会 西国街道ぶらり旅の会(2010年)』
広島城下の町は築城以来近代に至るまで、幾度となく水害にさらされて来た。
そのため、己斐町と福島町の間に流れる山手川と、福島川を統合し放水路をつくり、太田川に溢れる雨水をこの放水路に流して他の川の氾濫を防ぐ「太田川放水路」の計画は早くから立てられていた。昭和七年に国会の議決を経て、昭和九年から工事が始まったが、途中、戦争による中断もあり昭和四十年九月、着工以来三十三年の歳月を費やしようやく完成した。長い間の水害に悩んで来た広島にとっては、世紀の大工事であった。太田川放水路は川幅四百メートル、延長八キロメートルのゆったりとした川で、以後、広島の町を洪水から守っている。結果として七つの川が一つ減り六つとなった。「鯉はこいでもお城の鯉は、七つ川の瀬空から泳ぐ・・・」と親しまれた「広島音頭」も今では唄う人もなくなり、いつしか忘れ去られてしまったようだ。
土手道は非常に交通量が多い。私は猛スピードで走り去る自動車に注意しながらゆっくりと歩き【己斐橋東詰】交差点に到着したのだった。
![交差点](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/ee/d509ec8ddea7f5acbdc65b4c0e03df0c.jpg)