寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山市中区平井6丁目地先・柳原刑場跡

2015年05月15日 | 
倉安川排水樋門から南西へ約200m、土手下(左手)に鉄塔が建っている。鉄塔の傍に公衆電話ボックス2個分くらいの施設があり岡山県平井警報局という表示が見える。警報局の隣に石碑が2つあった。

矢田部六人衆処刑地の碑

場所はグーグル・ストリートビューでは確認できないが、「IRIE(平井6丁目4‐28)」の南側のスペースである。私は土手を下りて矢田部六人衆処刑地の碑の前に移動した。

不受不施 殉教遺跡
徳川幕政下備前藩ニ於ケル不受不施禁圧酷烈ヲ極ム世ニ伝ウ矢田部六人衆即干妙覚院日閑上人始メ河本仁兵ヱ 同五兵ヱ 同喜右ヱ門 松田五郎右ヱ門 花房七大夫ハ寛文八年六月十九日 又法立御藤吉五郎ハ天保十年四月三十日此ノ処ニ斬首サル
以来不受不施強信者ニシテ投獄遠流或ハ死罪ノ極刑ニ座シ 或イハ断食自害スル者幾千万ニ及フト雖モ明治九年四月不受不施再興公許ハ天日ヲ仰クノ時マテ祖訓ヲ内信二操守シテ揺ガス
六人衆三百遠忌ニ当リ此ノ碑ニ録シ以テ万代捨身護法ノ亀鏡トナス
昭和四十二年二月二十六日
釈 日学書

矢田部六人衆処刑地の碑(裏)

大きな石碑とは少し離れた位置で向かい合う石柱には柳原刑場之遺跡という文字が刻まれている。柳原刑場(旧平井村)は岡山藩の刑場の1つで石碑があるため近世警察の研究者の間では特に有名だ。

柳原刑場之遺跡碑

柳原刑場之遺跡碑

刻銘からは河川改修工事の際に河原から大量の人骨が出て東山の刑務所墓地に埋葬した経緯や実際の刑場跡地はここから西へ約30m移動した河原であることなどが分かった。

ホテル

私は土手道に戻りネット掲示板に度々登場する連れ込み宿の場所を確認して苦笑した。冷たい風を浴びながら色彩の乏しい河原に手を合わせた。念仏を唱えて目を開けるとジャージ姿の若者が白い息を吐きながら河口に向って走り去ったのだった。

旭川の河原(刑場跡)

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