トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

45年ぶり…爺爺の一分

2018-11-01 | 感じるままの回り道
 たまたまの出来事から昨年来連絡が取れ誘われていた基礎クラスの同級会に参加してきた。45年ぶりとかで当時の記憶は既に薄く少なく、それは頭部を見れば一目瞭然・一毛全然、面影も辿る事は出来ないような有様で、知らずに行き会ったらお互いに行きかう他人同士として一瞥もする事は無いだろう。再会するまでにはそれぞれに多様な人生と生き様があった。

 小生は稼ぐのに必死だったから学生生活をエンジョイする余裕はなく、数人と親しく出来た程度だったものの、一人は既に他界し、一人は老老介護の身で動けず再会は果たせなかった。
 小生に関しては名前も思い出せない級友でも様々な事を記憶しており「そういうものなのか…」と自己に対して想いを新たにした次第である。
 そんなことで温泉宿に泊まったものの入浴する機会を逸し、日付けが変わった午前三時近くまで話し込んでしまった。

 「付き合い」の悪い小生だったので級友を知る事も薄いままであったけれど、今回集まった級友は勿論、参加できなかった級友の近況を知る事が出来た。それを一言で言えば「初志貫徹」と言う事になろう。知り得た近況は、それぞれ道を究めつつ社会の要で現役を続けていて敬服するだけである。
 小生と言えば定年逃亡し姥捨て山に逃げ込んで社会的なかかわりは皆無なのだ。この歳になって「社会的関わりが少なくなると更に劣化する」という様な文章を多々目にしていたからワンパターンの日常にエポックメーキングするべく恥ずかしながら出かけたのであった。

 知り得た近況では、母校に入った動機を維持していただけでなく更に止揚し現在も教育・福祉、民生領域で活躍発展中のクラスメートが多数いたのには新鮮な驚きだったのだが、連絡もつかなくなった多くのクラスメートの中には小生の様に宗旨替えをした級友もいるだろう。
 たった一夜のクラス会であったものの「お爺さんは山へ芝刈りに行きました」というだけの小生自身を改めて眺めてみる機会となった。ひとくくりで表せば啄木の短歌が近いか…。
 自分としては今の対象が決して誤っているとは思ってはいないけれど、対象は替えたが初心は継続していると思いこめる理屈だけはあるから、これがよすがである。

 まあ、屁理屈の内だろうが「爺爺の一分」はあると粋がるものの、「爺爺の一糞」になってない事を秘かに願うのもまた胸の内なのだ。

           わがこころ けふもひそかに泣かむとす 友みな己が道を歩めり   石川啄木

           友がみな われよりえらく見ゆる日は 花を買い来て妻としたしむ   石川啄木

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