半月遅れの投稿。
前から12月と1月の世田谷ぼろ市に行って見たいと思っていて、年末ということで行き機会がなかった。
南千住の回向院のことを調べていて、その回向院には小伝馬町の牢獄で刑死した人達の遺骸を葬ってあるという。そこで回向院に行った時に、通常の墓地と分けられた有名人の墓が整備されていた。自分的には大きな墓碑の相馬大作が気になった。
この相馬大作は文政の三蔵と言われた、間宮林蔵・近藤重蔵・平山幸蔵で行蔵の門人が相馬大作だった。文政の三蔵は北海道に迫りくるロシアの脅威を感じていた人達だった。この相馬大作が暗殺未遂事件を起こし、江戸で潜伏中に火付盗賊改の職にあった、長井五右衛門昌純の配下の手で捕縛され、処刑され回向院に葬られた。
文政五年(一八二二)に相馬大作・関良助が刑死してからは国事犯を埋葬するようになった。 (『荒川区史』平成元年版 上巻 p.1525より).
つまり相馬大作の事件が無ければ、回向院には政治犯の墓がないこととなる。福神漬の命名由来の証言者・鶯亭金升は長井家の人である。そこから発生する逸話が忠臣蔵の物語の様に逸話が演劇となり、逸話の史実の検証で自分を脱線調査の手間暇がかかる。回向院の埋葬の話から、吉田松陰が処刑されたのちに松陰神社の所にあった長州藩の所に埋葬され、破壊され、再度埋葬されたという。江戸時代は死しても墓では安眠できない。
松陰神社を出た後、国士舘大学・建築中の世田谷区役所をみて、東急世田谷線世田谷駅からぼろ市の混雑に飛び込む。世田谷区の広報では日本一のフリ―マ-ケットという。一日で20万人の人出。浅草の雑踏もすごいが明治神宮等の初詣に匹敵する。
ただブラブラ混雑を眺め、上町駅で世田谷線に乗ろうとして遠くを見ると緑があった。多分豪徳寺と思い歩きだしたが違っていて、また世田谷線に戻ろうとしたら、宮ノ前駅に着き、ここが豪徳寺の最寄りの駅で観光客で混んでいて、人の流れで豪徳寺に入り、井伊家の墓参り。実に静かな井伊家の墓地。そのあと招き猫の奉納場所でここに来る人達を眺める。いまは日本は犬派と猫派の勢力争いで猫派が増えている。その後宮の前駅から三軒茶屋でバスに乗り換え、JR目黒駅で都バスに乗る。東急バスの三軒茶屋から目黒へ行く途中に世田谷観音があって、記憶では特攻観音があった気がする。次回はその確認バス旅企画したい。
前から12月と1月の世田谷ぼろ市に行って見たいと思っていて、年末ということで行き機会がなかった。
南千住の回向院のことを調べていて、その回向院には小伝馬町の牢獄で刑死した人達の遺骸を葬ってあるという。そこで回向院に行った時に、通常の墓地と分けられた有名人の墓が整備されていた。自分的には大きな墓碑の相馬大作が気になった。
この相馬大作は文政の三蔵と言われた、間宮林蔵・近藤重蔵・平山幸蔵で行蔵の門人が相馬大作だった。文政の三蔵は北海道に迫りくるロシアの脅威を感じていた人達だった。この相馬大作が暗殺未遂事件を起こし、江戸で潜伏中に火付盗賊改の職にあった、長井五右衛門昌純の配下の手で捕縛され、処刑され回向院に葬られた。
文政五年(一八二二)に相馬大作・関良助が刑死してからは国事犯を埋葬するようになった。 (『荒川区史』平成元年版 上巻 p.1525より).
つまり相馬大作の事件が無ければ、回向院には政治犯の墓がないこととなる。福神漬の命名由来の証言者・鶯亭金升は長井家の人である。そこから発生する逸話が忠臣蔵の物語の様に逸話が演劇となり、逸話の史実の検証で自分を脱線調査の手間暇がかかる。回向院の埋葬の話から、吉田松陰が処刑されたのちに松陰神社の所にあった長州藩の所に埋葬され、破壊され、再度埋葬されたという。江戸時代は死しても墓では安眠できない。
松陰神社を出た後、国士舘大学・建築中の世田谷区役所をみて、東急世田谷線世田谷駅からぼろ市の混雑に飛び込む。世田谷区の広報では日本一のフリ―マ-ケットという。一日で20万人の人出。浅草の雑踏もすごいが明治神宮等の初詣に匹敵する。
ただブラブラ混雑を眺め、上町駅で世田谷線に乗ろうとして遠くを見ると緑があった。多分豪徳寺と思い歩きだしたが違っていて、また世田谷線に戻ろうとしたら、宮ノ前駅に着き、ここが豪徳寺の最寄りの駅で観光客で混んでいて、人の流れで豪徳寺に入り、井伊家の墓参り。実に静かな井伊家の墓地。そのあと招き猫の奉納場所でここに来る人達を眺める。いまは日本は犬派と猫派の勢力争いで猫派が増えている。その後宮の前駅から三軒茶屋でバスに乗り換え、JR目黒駅で都バスに乗る。東急バスの三軒茶屋から目黒へ行く途中に世田谷観音があって、記憶では特攻観音があった気がする。次回はその確認バス旅企画したい。