ウリパパの日記

自由気ままに・・・

木更津の證誠寺を訪れる 2021.5.8

2021-05-15 21:13:42 | 千葉県

1週間以上前の古新聞になってしまいました。先週末の木更津散策の最後の記事となります。八剱八幡神社の次に訪れたのは證誠寺です。證誠寺は狸ばやしの伝説が残る木更津市で唯一の浄土真宗のお寺です。

 

證誠寺のHPから抜粋します。

 江戸時代の初期(17世紀中頃)に證誠寺は誕生しました。初代住職の了念は、実弟と共に鎌倉より川﨑を経て陸路当地に到着、この矢那川河口の地を選び、この地域に初めての浄土真宗のお寺を建てました。江戸時代の当寺は寺子屋で、大人も子供も大勢が勉強に来ていたようです。師匠であった住職を偲んで生徒である筆子達が建てた筆小塚が、境内にひっそりと建っています。また、五昼夜連続の雅楽演奏による音楽法要が行われるなど、地域の人たちに大変なじまれ、心のより所になっていたものと思われます。
 当寺には、開基間もない頃から狸ばやしの伝説があります。萩や薄の咲き乱れる境内で、中秋の名月に照らされながら、住職と大小百匹ばかりの狸が一緒に、「證誠院のペンペコペン、己等(おいら)の友だちゃドンドコドン」と歌いつつ、幾晩も楽しく踊ったと伝えられています。

 

證誠寺の狸塚の説明板がありました。狸塚の伝説がもとになり野口雨情により狸ばやしの童謡が生まれ、中山晋平の作曲により天下に広まりました。

 

證誠寺の境内図です。

 

童謡碑、狸塚、句碑、筆子塚の説明板です。

 

近くに咲いているのはエゴノキでしょうか・・・

 

向かって右側には立派な鐘楼がありました。

 

まずは童謡碑です。明治38年、当寺門徒の松本斗吟氏が地元の郷土史『君不去』に狸ばやしの伝説を紹介、大正時代に当地へ講演に訪れた野口雨情先生がそれをもとに作詞、中山晋平先生が作曲し、昭和の初めに大ヒットしたのが、童謡「証城寺の狸ばやし」です。

童謡「証城寺の狸ばやし」が大ヒットしたことを記念して、昭和4年に狸塚が、昭和31年に童謡碑が建てられました。   

 

童謡碑の前には楽譜が彫られています。

 

狸?の置物の先に見えるのは筆小塚。

 

 

狸塚にやってきました。

 

 

狸の置物の表情が可愛いい。何だかトトロみたいですね。横になった狸のような形の石に彫られた「狸」の字は、雅号を”狸庵" と称し狸の愛好家として知られた政治家 中橋徳五郎氏によるものと説明にありました。

 

 

こちらも狸でしょうか・・・

 

狸塚の先には光輪堂。納骨堂です。

 

 

こちらは本堂です。

 

家紋は五三の桐。そして賽銭箱には ”千社札は貼れません" 掲示されています。無断で貼っていく人が後を絶たないのでしょうか。鐘楼入口にも同じ掲示がありました。

木更津市のHPによると、毎年10月の第3土曜日に證誠寺で「狸まつり」が催されるそうです。市内の児童が独特の衣装とメイクで大狸、小狸、和尚さんに扮し、おなじみの童謡にあわせておもしろおかしく踊る、何とも微笑ましいまつりで、県内外から文学愛好者を始め、多くの見物客が訪れるそうです。

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木更津の八剱八幡神社を訪れる 2021.5.8

2021-05-15 13:28:08 | 千葉県

5月8日の木更津散策の初めに、八剱八幡神社を訪れました。八剱八幡神社は、日本武尊縁の神社・木更津総鎮守として鎮座し、地元では「八幡さま」の呼び名で親しまれています。創建は鎌倉時代初期、祭神は、誉田別命(應神天皇)、 息長足姫命(神功皇后)、 足仲彦命(仲哀天皇)、 素盞鳴命、 日本武尊です。

 

鳥居をくぐると石燈篭、御神木、2対の狛犬、そして正面に社殿。木更津の由来と八剱八幡神社の由緒についてHPよりそのまま引用します。

当社の社伝によると往昔このあたり一帯の地を八剱の里と呼び、この里の神を八剱の神と称え、この神に仕えるはふりを八剱と申した。

人皇第12代景行天皇の40年、日本武尊御東征の折り、相模国(神奈川県)より此の地に渡らんとするとき、浦賀沖で暴風雨に遭遇し御船が転覆寸前となった。そのとき妃橘姫が、「これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり」と海の神の怒りを静めようとして、尊の身代わりとなって御入水あそばれた。そのことにより、尊は無事に此の地にお着きになりましたが、姫の死を悼んでしばらく当社にご滞留になり、此の地を去ることをなさらなかったので、「君去らず」と呼ぶようになり、なまって現在の「木更津」になったと伝えられる。

源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営する。

天正19年徳川家康公社領3石2斗を寄進せられ、御朱印の証を授与される。慶長17年大阪冬の陣が起こると木更津より多くの船頭が召出されて、向井忠勝、小浜光隆軍のもとで目覚しい働きをした。これも八剱八幡神社の霊験加護のたまものであるとして、特に当社の宮司らを駿府城内に招き、銅鳥1隻と銀子を贈り神恩に感謝した。

宝暦2年に木更津の大火に依り社殿焼失。安永2年に現社殿を再建。寛政9年に社殿修理を加える。大正3年に社殿の大改修をする。また、明治4年には郷社に列せられる。昭和55年の社殿改修に際しては、格天井装飾画(162枚)も復元され、現在は厄除・交通安全・初宮詣・七五三詣・商売繁盛・合格祈願・学業成就等の守護神として鎮座する。

以上引用終わり。

 

社殿の右手には稲荷神社。

 

 

その手前には手水舎。

 

手水舎の隣には水引飾り。神職が一つ一つ手作りしているそうです。

 

水引飾りの説明です。

 

 

続いて本殿前の狛犬(阿形)。貫禄の表情です。

 

こちらは左側の吽形。

 

拝殿前にもさらに一対の狛犬。こちらは新しそうです。

 

八剱八幡神社の扁額。

 

五大力船絵馬と拝殿の格天井装飾画が木更津市指定文化財となっています。

 

拝殿の右手に源頼朝「お手植えの蘇鉄」の説明がありました。源頼朝が兵馬の疲れを癒したことに対するお礼として植えた蘇鉄を森家が大切に育て、その蘇鉄を森家が大正15年に奉納したものです。

 

これが蘇鉄です。蘇鉄は東京では見かけません。南房総ではよく見かけます。木更津は暖かいのでしょう。

 

蘇鉄の前に案内が建っていた関東一大神輿。今年の6月まで改修中のようです。

 

ところで、社殿の手前にこのような写真が掲示されていました。冒頭に紹介した木更津の由来ともなった「君去らず」神話に登場する日本武尊の顔です。

 

社殿に隣接する立派な参集殿の鬼瓦に使われていました。

 

鬼瓦をズーム。日本武尊は八剱八幡神社の参道と木更津の海を正面に見て鎮座していました。尊の身代わりとなって御入水妃橘姫を悼んで海を見つめているのでしょうか・・・

 

八剱八幡神社をお参りした後、近くの証城寺へ向かいます。木更津高校美術部が描いた木更津みまち商店街のアートです。タヌキや鳥が描かれていました。

 

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