近くの団地公園に、小学生数人がが遊びに来ていた。
集まるのはそれぞれ自転車でやってきて、公園の外ではなく、どうかすると公園のど真ん中あたりに自転車は転がされる。
一応野球用のグラブもバットも自転車のかごに入ってはいるようだ。
「ホー、この子らは野球をやるのかな」と、見るともなしに見ていると、野球はいつまでたっても始まらない。
そのうち一人が、シャツをめくってお腹のあたりから何かを取り出した。なんやら四角い固い物体。なんじゃろう?
早い話がゲーム機である。なんじゃこりゃ!
いつの間にか、4人が4人とも自分用のゲーム機を取り出し、公園の片隅にあるコンクリートのベンチに仲よく腰かけた。
それまでは甲高い声で互いの名前を呼び合ったり、ちょっかい出したりしていたのに、同じような姿勢でベンチに腰かけたとたんに声も出さなくなった。ひたすら黙って自分の手許だけを必死に睨んでいる。
「オイみんな、おじさんと野球をやろうよ」などと声を掛ける余地もない。ただ黙って見ているだけ。
こんなことなら、わざわざ自転車に乗って公園に集まらなくてもよさそうなものを、と思う。
ところが、彼らには彼らの言い分がある。「公園の方が安心してできるんよ」ときた。
そっかー、誰かの家に集まって、家の中でゲーム機に夢中になっていたら「外で遊びなさい」とか言われるのだろう。
それにしても、グラブやバットを一応自転車に積んで家を出る。公園に集まる。
そこには、ゲーム機中毒が、遠慮なしにのめり込める空間と、仲間と、自由さがあるということか。
「親の顔がみたい」、とか「もうちょっと何とかならんのか」などと思う。されど我が孫だって、家にいたり友達と遊ぶときは、似たようなことをしているのに違いないと思うと、あながち親も祖父母も責められない。
アナログジジが、デジタルヤングに注文を付けるのも、時代錯誤と笑われるのかな~。
それにしても、公園のコンクリートベンチに、おんなじように背を丸めて座っている後姿には、何とも言いようのない哀愁を感じるな~
これも平成の世の一つの断面かもねー。