母が逝って初めて迎えるお彼岸。今日はその中日(春分の日)、ぼた餅を作ってお墓参りし、納骨式以来の墓前に手を合わす。 “おはぎは秋で、春はぼた餅だったよな…” “作り方はおんなじなのに…” と笑う。
今日は思い切って国旗も玄関に飾った。お正月も成人式も建国記念日も国旗掲揚は控えてきた。
世はまさに桜開花の話題でもちきり。 そうはいいながら、家を出てほんの少し歩くだけで、桜に負けない色とりどりの花々が今を盛りに咲き競う光景に出会う。
枯れ木の先に白い小鳥がいっぱい止まっているような「白モクレン」。 花言葉がいい「持続性」「自然への愛」。
また少し歩くと、自由奔放に伸びた細い枝にびっしりときれいな5弁の花びらをつける「ゆきやなぎ」
葉っぱが柳の葉に似て細長く、雪が積もったように真っ白く咲いている。また花が散った後も、雪がパラパラと降った後のように清々しい。ついでながら花言葉は「愛嬌」「自由・気まま」などとなっている。
モクレンもゆきやなぎも、自分の花咲く時期をわきまえて精一杯咲いているのに、何故か桜の「前座」のような感覚しかなくて可哀想。
「前座」…落語家に入門し、見習いを終えたばかりの人で、お客の揃わぬ前席を受け持つ。羽織袴は付けられず、楽屋で師匠の履き物を揃えたり、高座の陰で太鼓を打つなど…落語以外の用が多い。これを3・4年。次いで「二つ目」羽織袴が許され雑用からも解放される。そうして実力を磨いた者が「真打ち」に昇格する。
どうしてもこの時期は、桜が真打ちであることに間違いない。となると他の花は、いくら見事でもきれいに咲いても、前座か二つ目の地位を抜け出ることはない。
花の世界も人間世界に似て、厳しいものがあるようだ。それでも、けなげに自分の咲く時期を心得ている。
華やかな真打ちに目を奪われがちであるが、それぞれの特徴を持って今、満開を目指す前座の花々にも大きな拍手を送りたい。 人間社会は、真打ちの後は名人?人間国宝…? 果たして自分は……前座止まりじゃないよなー…。
( 写真: 桜に先駆けて咲く、左:ゆきやなぎ(雪柳) 右:白モクレン )
今日は思い切って国旗も玄関に飾った。お正月も成人式も建国記念日も国旗掲揚は控えてきた。
世はまさに桜開花の話題でもちきり。 そうはいいながら、家を出てほんの少し歩くだけで、桜に負けない色とりどりの花々が今を盛りに咲き競う光景に出会う。
枯れ木の先に白い小鳥がいっぱい止まっているような「白モクレン」。 花言葉がいい「持続性」「自然への愛」。
また少し歩くと、自由奔放に伸びた細い枝にびっしりときれいな5弁の花びらをつける「ゆきやなぎ」
葉っぱが柳の葉に似て細長く、雪が積もったように真っ白く咲いている。また花が散った後も、雪がパラパラと降った後のように清々しい。ついでながら花言葉は「愛嬌」「自由・気まま」などとなっている。
モクレンもゆきやなぎも、自分の花咲く時期をわきまえて精一杯咲いているのに、何故か桜の「前座」のような感覚しかなくて可哀想。
「前座」…落語家に入門し、見習いを終えたばかりの人で、お客の揃わぬ前席を受け持つ。羽織袴は付けられず、楽屋で師匠の履き物を揃えたり、高座の陰で太鼓を打つなど…落語以外の用が多い。これを3・4年。次いで「二つ目」羽織袴が許され雑用からも解放される。そうして実力を磨いた者が「真打ち」に昇格する。
どうしてもこの時期は、桜が真打ちであることに間違いない。となると他の花は、いくら見事でもきれいに咲いても、前座か二つ目の地位を抜け出ることはない。
花の世界も人間世界に似て、厳しいものがあるようだ。それでも、けなげに自分の咲く時期を心得ている。
華やかな真打ちに目を奪われがちであるが、それぞれの特徴を持って今、満開を目指す前座の花々にも大きな拍手を送りたい。 人間社会は、真打ちの後は名人?人間国宝…? 果たして自分は……前座止まりじゃないよなー…。
( 写真: 桜に先駆けて咲く、左:ゆきやなぎ(雪柳) 右:白モクレン )
早速明日子供達に話します。感謝♪
春 牡丹餅
夏 夜船
秋 御萩
冬 北窓
日本語は面白い^^
私は特に北窓が気に入りました。
私なら、もしチャンスを頂けるのであれば、どんな座でも喜んでやります。
漫才はまだ私には未知の世界。勉強します(^^)
花言葉「愛嬌」と「自由・気まま」、深い意味があるのでしょうね。
裏千家の庵には赤い花は咲かない、初めから植えないそうです。
茶の湯の世界では花の咲く木は植えてはいけないというのがあります。
三百六十度どこからみても美しいように飾る西洋的なものに対して、日本の茶花は、朝顔を一輪だけ。
赤い花が咲くと摘み取ってしまう家もあるようです。春夏秋冬にわたって咲くことはない。
普段は町屋の庭に桜を植えたりはしないとか?。
お茶の世界と庭の切っても切れない文化、読んだことがありました。
わびさび…でしょうか。
谷崎潤一郎もわび・さびの文化を礼賛する一方で、圧倒的な王朝文化を讃美していますね。本当はどっち?だとお思いでしょうか~
ただ、前座も二つ目も飛び越えてはいけないと思うんですよ。
二つ目になったときに、前座の苦労や経験が生かせる。真打ちになったら二つ目時代の生活が肥やしになる……日々の積み重ねって強さを感じますねー。
おはぎ・ぼたもち……日本語って面白いですね。
お墓参りにも、今回は一段と力が入りました。
そちらはもうツツジですか。こちらよりかなり早いねー。
私もそれ程読んでいませんし、浅学どころか浅読みですので、語るほどのものは持ち合わせません。
「陰翳礼賛」はわび・さび文化の礼賛と言われてますよね。これは知っているんですが…。
これは財界人の雑誌に掲載されたので、自分の内なるものとは逆の、違う見方をプレゼンテーションしたのかという見方があるんですって。
谷崎源氏や「男と女の愛・人間の奥深い情などの描写などの描写を見ると」…
私は単純に王朝文化、きらびやかさの方が本心かななんて思ってしまいました。
ここが違うところですね。
私もどっちかとはよくわからないのですが、なのにお聞きしてしまいました~。
我が家の主がお薦めです、「恋愛及び色情」
「陰翳…」の2年前の随筆。
私は読んでないのですが、読んでみたらって。
タイトル見ただけで、手が出そうな本でしょうか?
わが庵は花の名所に五六丁
紅葉に二丁月はいながら
結構な住まいだよ~~と。
南禅寺近くに住み、法然院の庵を借りて「細雪・下」を書いていたころの歌だそうな。
なるほど結構なお住まいで、私も暮らしてみたい?
こういう断片的なものでも結構楽しいです。
私の場合毎日が楽しくて、嬉しくて、悲しくて、悔しくて、正直わかりません^^;
が、日々思い残すことないようにしてるつもりです。
前座でも駄賃は出てることでしょう。プロの世界の厳しさはそれなりに体験してきたつもりです。その生き馬の目を抜く世界から抜け出し、お金や名誉やそういったものでは無い所に見つけた私のいる場所は、フリーのスクール。
あくまでも私の私塾。
座の高低とは無縁の世界です。
360度、どこから見ても美しく感じる洋風と、一輪挿しの静寂に美、どちらを好むか……一も二もなく一輪挿しを選びます。見かけに似合わず、華やかさよりは芯のある小さな美に惹かれます。
普段のというか、普通の民家に桜は植えない…という話は何度か耳学問で覚えています。それがなんで…だったのかは定かではありません。
若い頃は人並みに、漱石・吉川英治・川端康成そして司馬遼太郎…などの作品に少しは目を通しました。そんななかへ、谷崎潤一郎を組みいれたら、あまりにも生々しく刺激が強過ぎて途中で放り出した記憶があります。その後映画では何作か見ました。
その程度の浅学ですから、谷崎思想を語る資格はありません。 ただ、yattaro-流の感覚では、男と女の愛・人間の奥深い情などの描写をみると、王朝文化というより、侘び寂びが心の中で広がっていたのかなー……なんて漠然と思う程度です。答えになってないか~…アーア…。