「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「サプリメント」

2008年06月19日 | つれづれ噺
梅雨のど真ん中。うっとうしい・蒸し暑い・寝苦しい・カビが生える……。
梅雨という言葉の後は何故かあまり感じのよくない表現が続く。それがまたよく似合っているから不思議である。何となく身につまされるなー…。

しかし、この時期に雨らしい雨がしっかり降ってこそ、米・いも・野菜、あらゆる植物が成長し、人間のお腹を満たしてくれる。さらに、ダムと言う水瓶に満々と水を蓄えてくれることで、節水や給水制限などから解放され、優雅な夏を過ごせるのだ。何事もガマンガマン!

と、じゅうぶん分かっちゃいるのだが、蒸し暑さや寝苦しさがボデーブローのようにジワジワ効いてくる。それに食欲不振がかぶさって夏バテを引き起こす。
それを、気のせいだと勘違いして更に無理を重ねると、秋になって肝臓障害など具体的な体調不良を引き起こす。
自慢にもならないが、何度か同じことを繰り返した体験者が反省の弁を述べている。

そこで登場するのが、サプリメントである。補足・追加・付録などの意味から、栄養補助食品とか健康補助食品と呼ばれ、現在最も華やかな成長産業の一つと言われている。
ご他聞にもれず我が家にも何種類か常駐している。

出来ればこのような物に頼らず健康保持出来れば申し分ないのだが、世の中の流れや宣伝文句に乗せられてついつい購入してしまう。というのはタテマエで本音は、全体的体力低下や反射神経の経年劣化などを、他人に悟られまいとするけなげな努力の跡である。

家庭内論争で「気持ちと口は昔のまんま」などと、なじられようと呆れられようと、ひたすら耐えるのである。そしてサプリメントの暗示に乗っかって、梅雨をやり過ごし、暑い夏を迎え撃とう。もう少しやり残したことがある。
       (写真:我が家に居着いたサプリメント)
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「また一つ…」

2008年06月18日 | 趣味・・エッセイ
ここんとこ、一つまた一つパソコンの活用範囲が広がっている。
今回も紛れもなく一つ賢くなった上に、経済的な買い物方法を教わって、大儲けした感じがする。

現在は発行もされていない、在庫もない、という古い本が手に入る方法である。しかも、中古だから初版価格の半値くらいとなっている。年金所得者にとって有り難い話であり、8年も前の出版だからとあきらめかけていた欲しい本が手に入るのだ、嬉しいじゃないですか。

「本は貸すバカ・戻すおおバカ」と言われるくらいの物で、古かろうが新しかろうが、人手に渡ったいきさつがあろうがなかろうが、その中身に変わりがあるわけではない。しかも我が蔵書として手許に置けるならこの上ない。

パソコン堪能な方には、「なんだ、こんな馬鹿げたことをいまさら…」と笑われることだろうが、宝の持ち腐れと自分で思いながらも、何かのチャンスを捕まえては、一つでも多く使いこなせるように、日々パソコンと向かい合ってはいる。何でもいい、一つ使用範囲が広がったら、素直に嬉しい。

そのためには、あっちこっちにいいお友達がいてくれることが欠かせない。
有り難いことに、師匠が数人いてくれる。それぞれ皆さん世話好きな、いい性格の持ち主ばかりである。
時にはこちらの都合だけ考えて押しかけ、否応なしに世話好き人間に仕立て上げて、結論を引き出すことも少なくない。そんな帰り道には「有り難いことだなー」としみじみ感謝しながら背中を丸めて一目散。我が家のパソコンでコンコンと復習している。

長谷川伸の時代物とか、城山三郎の企業悪小説とか、読みたい本を安く探すぞー。
いまだ、完全な「晴耕雨読」の優雅な生活ではないが、その日のための準備をしておかなくっちゃ。
     (写真:中古品のパソコン市場、画面)
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「隣のタチアオイ」

2008年06月17日 | 季節の移ろい・出来事
お隣の庭に咲いた、色鮮やかなピンクのタチアオイ。
ご主人がどこからかタネをもらってきて、手塩にかけた赤・白・ピンクの中の一種類。見応えのある花をつけて楽しませてくれる。

「隣の芝生は青い」的な発想ではなく、そのものズバリ見事である。

「タネをな、こうやって植えてな、添え木に竹を立ててやってな……」タチアオイの講釈に始まって、30分も立ち話をしていたら、この自治会全体の最新情報がおおよそ分かってくる。
ともすれば、あそことここの犬は仲が悪いから出会うと喧嘩が始まる。どこそこの犬は体は小さいが、気が強くて大きな声で吠えまくる。あそこの奥さんはフィリピン出身で……と言う具合。

そういった世間話や自治会最新情報に疎い人間にとっては、格好の情報源である。
それもこれも、お互いがこの地に新築し、引っ越してきた当初から、お隣さん同志という強いきずながあったればこそである。
低いブロック塀を挟んで「旬の味、小皿に載って、垣根越し」の行ったり来たり。
お互い年も近く、共通する話題が豊富なせいもある。

そこへいくと、向こう三軒両隣が全てそうか?と言えば必ずしもそうは行かない。
生活形態の違いや年齢差、それに忙しそうで共通の話題探しに事欠く始末。
しかしまあ、遠くの親戚より近くの他人というくらいだから、ご近所のよしみだけは通じておきたい。もちろん深く立ち入ったりはしないが、声を掛け合う努力は、ご近所付き合いのマナーの原点であろう。

それにしてもお隣のタチアオイは見事である。花が終わったらタネが来るかも知れない。来たらなんとしてでも育て上げて、花の一つも付けさせなければ。
これも家庭を守る、一家のあるじの勤めなんでしょうかねー。
      (写真:お隣の見事なタチアオイ)
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「初物」

2008年06月16日 | 季節の移ろい・出来事
苗を買って植え付けてからおよそ2ヶ月。ピーマンがようやく食べられるほどの実を付けた。そのすぐそばにあるビワの木に、こちらも口に入れられるほどの実がなった。

季節感が麻痺するほど、年がら年中ピーマンなどはお店に並んでいる。
でも我が家の畑で取れたのだから、正真正銘、旬の野菜であり初物である。ビワもまたしかり。

ビワは水分が多く、美味しかった。ピーマンは青黒く光り、ツヤツヤでこれまた美味しそう。
なのに、どちらに対しても我が身と重なって、何かしら物足りなさを感じる。

ピーマンは、図体は大きく、青光りする色や艶で人の目を惹きつけ食欲をそそる。しかし、外観とは裏腹に中味は空っぽ、しかも軽ーい。
誰かさんのことを言われているようでドキッとする。

ビワはビワで、あの大きさの実の割にはタネがでっかくて、実際に喉を通る果肉はほんのわずか。こちらも、見かけによらず実際の中身は大したことないねー、というささやきが聞こえてきそうで、ドキッとする。

「初物は東の方角を見て笑って食べなさい、いいことがあるから……」と親から教えられてきたが、どうも耳の後ろから余計な声が聞こえて来そうで、初物を完全には喜べない自分がいる。

こんなことを言うとピーマンもビワも立つ瀬がないと言って怒るだろうな。「私に中身がいっぱい詰まって、瑞々しかったらキューリの存在がなくなる」とね。またビワは「タネのない果物があったらお目に掛かりたい、タネがあればこそ、新しい芽が育つんだ」っていうだろう。

中身が空っぽなら外側を美味しく食べればいい。タネが大きいと言って嘆く前にビワの味を出せる物はビワ以外にないことを、知ってあげなければいけないんだよね。と自分に言い聞かせて、やっぱり、食べ物も人間もそれぞれに、いいところや特徴があることを考えて、ドキドキするのはやめようっと。

それぞれがみんな違って、みんないいんだよね。ピーマン君・ビワちゃん!!
       (写真:我が家で初めて取れた旬の味)


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「エッセイ教室」

2008年06月15日 | 趣味・・エッセイ
「エッセイを書く」という一つの目的で集まった同人仲間。その名を「岩国エッセイサロン」という。
まだ、歩き始めて日も浅く、仲間の人数も少ないことから、岩国の文化協会の仲間としてはメジャーではない。

しかし、生い立ちからの歴史や人数の多少に関わらず、内容そのものは恥ずかしくない堂々たる活動と、それに見合う個性あふれる多彩な顔ぶれであり、個々の力で十分な社会貢献出来る人たちの集団である。と、会員一人一人が自覚している。と思う。しているんじゃないかな。していて欲しい……。

兎に角、代表を中心に一枚岩のチームワークは見ていて心地いい。およそ何事を行ってもはっきりとした成果を残せる大人感覚のグループである。

そんな仲間が、それぞれの役割分担をして、第2回目のエッセイ教室を開いた。
6月14日(土)13時~16時 岩国中央公民館 参加費500円
メインは、毎日新聞山口支局長・勝野昭龍氏を講師にお招きして、エッセイの書き方に関する基調講演。会員の創作エッセイを批評指導するエッセイ講座。さらには普段疑問に思っている質疑応答などなど。

設定した3時間では物足りなさが残るほどの充実した教室であったと自画自賛する。それは「時間があっという間に過ぎてしまった…」「大変参考になった…」など感想の声に集約されていると思う。

少しでも作文に興味をお持ちの方にはお勧めである。思ったこと・気にとまったこと・感じたこと、などを言葉にして話す、その言葉を文字に置き換えてみる。
そんなことの繰り返しが結構楽しみになってくるから不思議である。

講師がしっかり準備してこられた資料を読み返し、創作エッセイの修正箇所を今一度吟味しながら、これからも先輩・後輩みんなの作品を参考にしながら書くぞー。
それにしても、人間の力って無限だなーと思う。何人かが気持ちと力を合わせれば、この世に不可能はなくなるんじゃないか…と。ちょっと大げさかな。
エッセイ教室での目に見えない収穫が、お腹を満たしてくれた。
父の日プレゼントのお酒は、夜、五臓六腑を駆けめぐった。

毎日新聞山口支局長への感謝の気持ちが薄れないうちに、早速、つたない文字ながら手書きで感謝の葉書をしたためた。投函に行ってこよう。
        (写真:エッセイ教室を彩った資料あれこれ)

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「悦に入る」

2008年06月14日 | 家族・孫話
朝8時15分「ピンポーン」「宅急便でーす」。
セガレの嫁さん発信の手荷物。「こわれもの」の赤いラベルが貼ってある。およそ察しは付く。案の定「蔵出し日本酒」が届いた。

名前がいい、洒落っ気も何もないそのものずばり「お父さんありがとう・感謝の酒」とラベルに大書されている。
いかにも嫁らしいストレートな表現ながら、気持ちは伝わってくる嬉しい贈り物である。

お付き合いの長かった二人の交際の日々を、少しイライラしながらしかし黙って見守ってきた。そろそろ潮時かなと言う頃を見計らって「ちゃんとケジメを付けようや」とオヤジの一言。セガレもやっとその気になった。

一人息子の結婚に関しては、父親としては色んな思い入れがあった。あの人もこの人も招待して、セガレを世間に認知してもらい、我が家の跡取りの認識を深めさせよう、などなど一人合点の有頂天だった。

ところが、全てのシナリオは二人の手の中で完全熟成されていた。お金は出すが口は出さない典型的な3枚目の親を演じた。やっとこさ差し挟んだこちらの言い分は「親戚だけでも集めて披露の宴をもつこと」これだけは通した。

あれから4年半、特に大きな問題もなく過ごしてくれているのが何よりだ。そして毎年、母の日・父の日にはプレゼントが届く。私などが自分の親には味合わせてあげられなかった嬉しさを今、味合わせてもらっている。
しかも今年は初めての、お酒の贈り物。今夜は酔ってみるか…。
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「執念…?」

2008年06月13日 | つれづれ噺
陽当たりのいい東側の出窓の下。小さな花壇に、カビが生えて食べられなくなったお米を一握りずつ撒いて、スズメの餌付けをしているつもりの我々を、あざ笑うかのように、一向に警戒心を解かない。写真さえなかなか撮らせてくれない。

3日餌を与えたら生涯その恩を忘れないという犬などと比べると、同じ動物ながら随分その性根は異なるものなんだなー。

どうしても、お米をついばむ写真が撮りたくなってカメラを向けること数日。
朝早くにお米を撒く。警戒しながらも撒き立ての多くのお米を求めて、お腹をすかせて朝食にやってくるのを待った。カメラを向ける、逃げられる。何度か失敗。そのうち、スズメがカメラに慣れてきたのか、こちらの執念に肖像権を放棄する気になったのか、ようやく撮れた。

その間よく観察してみると、一羽でやってくるのは滅多にいない。たいていが偶数でやってくる。夫婦か恋人同士か。教えてはくれないが、その中で必ず一羽が見張り役をする。他のスズメは一目散についばむ。いい加減になったらお米がなくならないうちに一度飛び立つ。しばらくしてまたやってくる。今度は見張り役が変わる。一度飛んできたままで見張り役を交代して餌を食べるなどは決してしない。必ず一度は飛び立って改めてやってきたとき、見張り役が交代している。

たまに奇数でやってくるのは夫婦と子供に違いない。怖々羽根を震わせる子に口移しで米を与える。その時も必ず一羽は少し離れて見張りをする。

やるもんじゃねー。親子・夫婦・恋人同士、どんな組み合わせかは分からないが、確かな信頼で結ばれた秩序が保たれている。その秩序を時々乱すやつもいる。その時は、必ず親鳥が追い散らして、取りあえず近辺からところ払いをしている。

スズメの親子のいいところは見せてもらったが、なんとまあブログネタ探しとはいえ、ヒマな人間だなーとあきれる。執念と言えばカッコいいけどね。
      (写真:ついに捉えた出窓下のスズメ夫婦?)
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「季節の花便り」

2008年06月12日 | 季節の移ろい・出来事
梅雨の晴れ間の昼下がり、カメラを提げて吉香公園に出向いた。
毎年この時季、丹誠込められた花菖蒲を観賞するのを一つの楽しみにしている。

梅に始まり、桜・牡丹・藤・つつじ・薔薇・あじさい、そして菖蒲。
吉香公園を彩る花々の今年前半の最後を飾るにふさわしい、黄色・紫・白・ピンク色とりどりの菖蒲の群生。見事である。

吉香公園の奥まった一角にある菖蒲園は、シーズン以外は人間も大きな動物も出入り出来ない頑丈な鉄柵に囲まれている。菖蒲の根っこのミミズを狙ってやってくるイノシシ対策だそうな。それほどまでに手間もお金も掛けて一年間守り育てられて見事な花を観賞させてくれる。じっくりゆっくり味わいたい。

季節の花の観賞にも、ふさわしいやり方があるのかなと思う。桜は文句なし大人数で賑やかに眺めるのが最適。藤やつつじ・薔薇もそれに近いかな。そこへいくと、梅や牡丹、菖蒲などは花弁のひとひらまで静かに味わってみたくなる。

私にとっての吉香公園は、孫の守の時間つぶしに困ったときの駆け込み場所という印象が強い。しかし、花々を愛でる時だけは、孫には気の毒ながら静かな二人連れがお似合いの気がする。

そんな気持ちで訪れたくだんの菖蒲園は、某デーサービスセンターの菖蒲鑑賞会とぶつかって、大勢の人生大先輩達でごった返していた。やっぱり菖蒲観賞は梅雨の晴れ間に、特に語るでもない二人が静かに歩くのがいい。

そして次に、吉香公園に来るときは、噴水吹き上げる水しぶきに光る虹の花を横目に見ながら、プールで泳ぎ回る孫の監視に目を光らせるのかな……。
季節の花便りを書きながら、やっぱり現実とは離れられないなー。
      (写真:菖蒲園と休憩所にあふれる大先輩)
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「ゴマすり」

2008年06月11日 | つれづれ噺
朝ご飯のお味噌汁が実に香ばしく、食欲をそそられる時がある。
毎日ではない、たまーにでもない。ほどよい周期でその味に出会う。その正体は擦りつぶされたゴマをスプーン一杯分、お味噌汁に混ぜ会わされた隠し味。

市販のゴマをレンジでチンしてスリバチで擦る。何とも言えぬいい香りが部屋に広がる。栄養価が高く健康にもいいから、という話を小耳に挟んだカミサンが、擦りつぶしては密封容器に保存しておく。

擦るのは彼女の仕事の一つなのだが、たまに野球中継などを見ながらお手伝いのつもりで擦ってみる。中にはしたたかなゴマがいてなかなか全部が擦りつぶせない。すりこぎを持つ手に段々力が入る、目はテレビにくぎ付け。ゴマがはみ出し、あたりを汚す。「真面目にゴマを擦りんさい」と叱られる。

どこかで聞いたセリフだなーと考えてみる。「ゴマを擦る…」嫌ーな言葉だなーと遠い昔を思い出す。世渡りの難しさは男も女も変わりないと思うが、特に男の世界は厳しかったように思う。時には意に染まぬ命令に反論することもある。そんなときついつい揉み手をしながら、ベンチャラの一つも言って「真面目にゴマを擦って」自分の有利な方向に結論を持って行く…。

あっさり割り切って、今、我が家で必死になってやっているほど若い頃にゴマを擦っていたら人生変わっていたかも知れない。でもゴマを擦れば力余って周囲を汚してしまう不始末では、所詮へたな生き方しか出来なかったのだろう。

ゴマの油と農民は、絞れば絞るほど出るものなり、などと徳川幕府の某勘定奉行がほざいたという話を聞いたことがあるが、ゴマの油は実際に健康食品として重宝されていることに違いはない。

朝ご飯の準備が忙しかったり、ご自分の出勤がせわしなくなったりするとゴマ入り味噌汁がお預けになるが、毎日ではこちらの有り難みも薄れるので、ほどよい回数がちょうどいい。それにしても健康食品への飽くなき挑戦には頭が下がる。

たまにはカミサンにゴマを擦る方策も考えないと、バチが当たるかも。
    (写真:血管の浮いた細腕で、必死にスリバチの「ゴマを擦る」)
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「おせっかい」

2008年06月10日 | おせっかい
我がブログのカテゴリーに、一つ大事な部分が抜けていることに気付いた。それは「おせっかい」という項目。早速追加した。
これまでの人生を振り返ってみたとき、会社における勤務時間以外の私生活の中で、その多くがある意味で「おせっかい」に通じる生き方ではなかったかとさえ思われる。

それが悪かったとか良かったなどという話ではない。その時々において、相手のためによかれ、世間のためによかれ、ひいては自分のためによかれ、と判断しつつ行動を起こし、よりよい結果を求めてその方策を練り、プロセスを修正しながらやってきたように思う。

但し、「おせっかい」とは広辞苑によると、余計な世話をやくこと。また、他人のことに不必要に立ち入ること、とある。
自分の考えているおせっかいとはかなりニュアンスが異なる。

これまで多くの人との関わりや生活の中で、色々な立場をこなしてきた。そんな時「世話好きじゃねー」と冷やかされながらもいつの間にか、文字通り世話役に回されていたり、自ら飛び込んだ役どころも少なくない。そのたびにありったけの知恵を絞り、役目を全うするための参考意見を訪ね回って解決にこぎつけたことも数知れない。

このブログの立ち上げに当たっても、当初ははっきりした意識はなかったのに、続けているうちに段々「このブログから何かを感じてもらえたらいいな…」などと大それた考えを持つようになる。そのこと自体がおせっかい以外の何物でもないのではなかろうか。但しそれは押しつけでもなければ、他人の考えに立ち入ることなど全く考えているわけではない。

余計な世話をやかず、他人のことに立ち入り過ぎず、おせっかいが必要としている人には十分届くような「おせっかいブログ」をたまには書き込んでいこう。
ほどほどのおせっかいは、この世の必要悪なのかもね。
       (写真:ひとのことはほっといてよー)
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