18歳で戦死した叔父からの手紙(その2上海から)終わり
其の後お姉様たちには変わりなくお働きの事と思います。私も相変わらず元気ですから御安心ください。
今年の夏も過ぎんとして涼しい秋を目の前に迎えました。長い事便りもせず失礼しました。
これにも色々の事情が御ざいました。
日支の事件急をつげ我々第一水雷戦隊は七月十三日より佐世保で戦備をととのえ、
八月の十日午後二時故国を後に戦の門出に立ちました。
男としていな軍人として一度でも戦にのぞまれる事を無上の光栄と思って死しても御国の為に働きます。
十三、四日頃からぽつぽつと始まり出した銃声も今は砲弾やら爆弾やらで大都市上海も戦場と化してしまいました。
我が水戦隊の陸戦隊も上陸した私共は十六日の午前二時に暗黒の上海に上陸しました。
十七日に小学校(日本人の)にて居留民保護の任務でした。
千人近くもひなんして来ていた居留民の真中に十一時半頃から打ち出した敵の野砲が一発二発命中しまして大さわぎ。
二、三十人の死傷者を出してしまいました。そして我々戦友も十二、三名死傷。目もあてられぬ惨状でした。
それ以来毎日毎夜のように支那兵は暴徒を働く本当に憎いやつだ。
海軍の陸戦隊も死力を盡して守って居る、敵もそうらくらくとは攻めて来れない。
敵の爆弾や大砲が目の前に落ちた時はひやひやとしますね。
便衣隊の横行にも相当なやまされるいつどんな事があるか分らんが犬死はせぬ考へです。
生きて内地に帰った時は又遊びに廻って見ます。
生きて帰らぬ覚悟で来たのだから、どっか分らん上海の町も我が攻撃によって火災をおこし、
二万戸も焼けた町の中は支那人の死体でうようよしている。
では元気で働き下さい。私も生のある限り一生懸命でやります。さようなら。
上海にて
相当な緊迫感の中、戦闘の中でようやくしたためたように思えます。昭和12年8月26日の事ですから。
覚悟をもって戦争にのぞんでいる気持ちが書かれていますが、これが最後の手紙になってしまいました。
この後はこんな風に生々しく戦況、一般人の様子を書いた内容など検閲で消されてしまうことになったのでしょう。
手紙、封書の存在は知っていましたが、内容を再読して驚きと、ある種の感動に包まれています。