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大阪府南河内郡太子町の小野妹子墓へ行ってきました。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。 ・・・ 太子町のHPより
小野妹子は
推古天皇15年(607年)に隋に派遣され ~ 翌年(608年)4月帰国
同年9月に再び大使として隋に派遣され ~ 翌年の推古17年(609年)9月帰国
写真の右端に 「道祖 小野妹子墓」の石標が建っている
石段は紅葉に染まっている
ピークは少々過ぎているが、まだ美しさは保っている
まだ頑張っているアジサイにひとひらのモミジ
足もとには紅葉の絨毯
絵にかいたような眺め
瓦の屋根は落ち黄葉葺に
石段を上から眺める
紅葉の中に 何かの大きな石碑
塚の頂上に小野妹子の墓がある
墓の横はイチョウの落ち葉で黄色の世界になっている、 右上の石積が小野妹子の墓
イチョウの絨毯をアツプで撮る
少し離れてイチョウの大木を撮影
この写真では大木感は出てないですネ
後方 中央ヤヤ右に富田林市のPLの塔が見えている
隣の科長神社
今から 1,400年以上前のことである
当時 “ 隋 ” は日本より優れた先進国だったのだろう。今ならジェット機で短時間で着くが、当時は船で何日もかけて、相当な危険覚悟で海を渡ったのだろう。
そんな危険を顧みず、二度も隋に渡った小野妹子、今は美しい紅葉に飾られて静かに眠る。
大阪府南河内郡太子町の小野妹子墓へ行ってきました。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。 ・・・ 太子町のHPより
小野妹子は
推古天皇15年(607年)に隋に派遣され ~ 翌年(608年)4月帰国
同年9月に再び大使として隋に派遣され ~ 翌年の推古17年(609年)9月帰国
写真の右端に 「道祖 小野妹子墓」の石標が建っている
石段は紅葉に染まっている
ピークは少々過ぎているが、まだ美しさは保っている
まだ頑張っているアジサイにひとひらのモミジ
足もとには紅葉の絨毯
絵にかいたような眺め
瓦の屋根は落ち黄葉葺に
石段を上から眺める
紅葉の中に 何かの大きな石碑
塚の頂上に小野妹子の墓がある
墓の横はイチョウの落ち葉で黄色の世界になっている、 右上の石積が小野妹子の墓
イチョウの絨毯をアツプで撮る
少し離れてイチョウの大木を撮影
この写真では大木感は出てないですネ
後方 中央ヤヤ右に富田林市のPLの塔が見えている
隣の科長神社
今から 1,400年以上前のことである
当時 “ 隋 ” は日本より優れた先進国だったのだろう。今ならジェット機で短時間で着くが、当時は船で何日もかけて、相当な危険覚悟で海を渡ったのだろう。
そんな危険を顧みず、二度も隋に渡った小野妹子、今は美しい紅葉に飾られて静かに眠る。