東京新聞は、12月26日の社説で以下のように表現しました。
国民一人一人が、冷静な目で全体を客観的に見渡し、人気を能力や識見と見誤らずに熱狂から距離を置くことが大事です。 それは報道に求められる姿勢でもあると自戒しています。近現代史はメディアが国民を熱狂に追い込んだ歴史でもあります。
この指摘をものさしにして、「民の力を活かそう 政治を諦めない」(1月5日の社説)を考えてみることにする。
>大義のあることを諦めず、しっかり伝えるなら、局面は変わる
野田首相のいう「大義」とは、国家の財政危機を救うためには消費税増税はやむを得ないということだろうが、本来の「大義」とは、国民の生活を政治が守る、豊かにするということだろう。野田民主党は「消費税増税はいつの間に民主党政権の大義と化した」のかと、社説子は政権公約をもちだしている。しかし、これでは押し切られるだろう。何故か、それは社説子自身が
>少子高齢化社会の本格的な到来に伴う社会保障費の増大や危機的な財政状況を改善するためには、いずれ消費税率の引き上げは避けられないと、国民の多くは理解しています。
と述べて、増税は既成のものという前提に立っているからだ。
だから以下の「偽りのムダ」論にたってしまうのだ。結果的には消費税増税路線の枠のなかで論じてしまうのだ。
>首相に政権の大義と感じてほしいのは、むしろ行政の無駄をなくすこと、「税金のムダづかい」一掃にどこまで死力を尽くしたというのでしょうか。
こういう問いかけでは、「危機的な財政状況」が作り出されてきた要因などは想定外ということになってしまう。だから、以下の点、これが本質なのだが、追及も甘くなる。
>営々と積み上げられてきた政官財の既得権益を打ち破るのは困難な作業だと、国民は理解しています
と国民の責任のような展開になってしまうのだ。そもそも「政治家・官僚・財界の既得権益」とは何か、それらの「既得権益」を新聞・メディアは徹底して暴いて、「民の力を活か」してきただろうか?後で述べるように、歪曲し、政権を延命し解決を先送りしてきたように思う。
また「少子高齢化社会の本格的な到来に伴う社会保障費の増大」という認識は事実を反映しているだろうか?
そもそも「危機的な財政状況」をつくったのは建設国債・赤字国債を発行したからだ。それらはどこに使われたか?さらには「政官財の既得権益」のどこに使われてきたのか?ここにメスを入れずして、「危機的な財政状況」は解決しないだろう。原子力ムラ=原発利益共同体の構造的癒着を暴かないメディアの「枠組み」にメスを入れずして「民の力を活かす」ことはできないだろう。
本質は、「危機的な財政状況」のウラにある「政官財の既得権益」で大儲けしてきた事実にこそメスを入れるべきなのだ。
この事実こそが最大の「ムダ遣い」なのだが、実際は「偽りのムダ遣い」論で展開し続けている。「民の力を活か」そうとしないと言われても仕方ないのではないのか?
>穴の開いたバケツにいくら水を注ぎ込んでも水がたまらないように、無駄遣いが残る行政機構にいくら税金をつぎ込んでも財政状況はよくならず、国民経済は疲弊するばかり
一般論で言えば確かに「無駄遣い」はよくない。だが社会保障はムダ遣いか、議員や公務員はムダ遣いか、
>首相がまず力を注ぐべきは、増税ではなく、国会や政府が身を削ることです。その順番が違うことに、国民は怒りを感じるのです。
社説子自身が「議員一人当たりの経費は年間一億円程度で、八〇削っても八十億円の削減にしかなりません」と述べているが、それなら、何故もっとこの問題のキャンペーンをはらないのだろうか?「ムダ遣い」=議員削減というワンパターンには辟易する。
「国会や政府が身を削る」って、本当にこれで「危機的な財政状況」を改善できるのか?消費税増税で本当に社会保障は充実できるのか?「政官財の既得権益」という「ムダ遣い」にメスを入れることができるのか?
こうした展望をはっきり語らなかったからこそ、国民に「怒りを感じ」させてきたのではないのか?
繰り返して言うが、今巷で言われている「身を削る」論では本当に展望は切り開けない!民の「身を削る」増税ための方便として議員や公務員の「身を削る」論に見えてこない「政官財の癒着=既得権益」、とりわけ「財」の「既得権益」に眼を瞑っていては「民の力は活か」せない!
「不毛な対立ばかり繰り返」させてきた「国会」によって「政官財の既得権益」という「ムダ遣い」にメスを入れず、「穴の開いたバケツにいくら水を注ぎ込んでも水がたまらない」「偽りのムダ遣い」論と政局報道に国民の眼を奪って、国民に「怒りを感じ」させてきたこと、ここに本当の意味で反省しないと、「近現代史はメディアが国民を熱狂に追い込んだ歴史」の過ちを繰り返すことになるだろう。
削るべきものを違へて垂れ流す足喰らふタコ溢れたる国に