愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

国民の意欲を引き出す政治とは、財界・政治家やマスコミの皆さんの再考を呼びかける!

2012-01-22 | 日記

21日の「朝日」に日野原先生のお話が掲載されていた。納得。同時に政治家や財界・マスコミの皆さんに是非ともお考えをいただきたいと思い、一言二言、言うことに。

「100歳・あるがまゝ行く」日野原重明(聖路加国際病院理事長)
「意欲を引き出す教育とは」
 日本は第2次大戦後に大学教育が広く普及し、いまや男子の半数以上、女子の4割以上が4年制大学に進学しています。しかしながら日本の教育は、小学校から大学まで、今なお教壇からの一方的講義(didactic teaching)が主流ではないでしょうか。
 日本では小学校時代から、教師も保護者もテストの点数が高い優等生に関心を寄せがちだと思います。名門校入学を学習のゴールと定めるのが常識で、学習塾の力を借りて受験術を磨くことに専心するのです。
 ところが、英米などでは、生徒の一人ひとりが特技を持ち、個性を伸ばすようになることを重要視しています。つまり生徒の内にあるものを上手に引き出し、自信を持たせることに教育の主眼が置かれているのです。
 私の孫3人が米国カリフォルニア州で小学生だったころ、小学校を見学したことがあります。ボランティアの助けを借りながら、能力差のある生徒一人ひとりの指導に、教師がとても熱心だったのが印象的でした。
 私が教育を考える時、思い出すのが神戸市立諏訪山小学校時代の恩師、谷口真一先生です。以前もこの欄で触れましたが、5、6年時の担任だった谷口先生は、米国流のドルトン・プランという教育法の実践者でした。
 先生は40人のクラスを8入ずつ五つの小グループに分け、各グループに図書館や動植物園などで動植物の生態などを調べて発表させました。それぞれのグループは他のグループの発表を聞いて質問します。先生は内容については口出しをせず、回答に窮するグループがあると、どのような教材で調べれぱよいかなどだけ助言をしました。
 先生の指導で、生徒は講義を一方的に聴くのではなく、自己学習の方法を学びました。私たちは初等教育の段階で学ぶ楽しさを知り、学習への心構えの礎を築いたのです。
 「白熱教室」が話題になった米国ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は、イチローの高額年俸でも、オバマ大統領に原爆投下について問責することの是非でも、少数意見を尊重し、教室全体を厚みのある議論に導きます。自己学習の意欲を高める指導ができる者こそ、本物の教師だといえましょう。

日野原先生の発言は、以下にアクセスすると拝見できます。これも大変参考になる。
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=48541
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=51429&from=yolsp&from=popin

日野原先生の仰ることは、「受験戦争」下の学校現場では一筋縄ではないと思う。それは日本の教育が、戦後教育を次第次第に軌道修正してきたからだ。そこで、以下の文書を思い出した。

 これまでの日本の教青は、一口でいえば、「上から教えこむ」教育であり、「詰めこみ教育」であった。先生が教壇から生徒に授業をする。生徒はそれを一生けんめいで暗記して試験を受ける。生徒の立場は概して受け身であって、自分で真理を学びとるという態度にならない。生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、ほんとうに学問を自分のものにするためではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職につごうがよいからであり、大学で学ぼうというのも、主としてそれが立身出世のために便利だからであった。そのような受け身の教育や、手段としての勉強では、身についた学問はできない。それどころか多くの人々は、試験が済んだり、学校を出たりすると、それまで勉強したごとの大半は忘れてしまうというふうでさえあった。
 そのうえに、もっと悪いことには、これまでの日本の教育には、政府のさしずによって動かされるところが多かった。だから、自由な考え方で、自主独往の人物を作るための教育をしようとする学校や先生があっても、そういう教育方針を実現することはきわめて困難であった。しかも政府はこのような教育を通じて、特に誤った歴史教育を通じて生徒に日本を神国であると思いこませようとし、はては、学校に軍事教練を取り入れることを強制した。「長いものには巻かれろ」という封建思想は、教育者の中にも残っていたし、政府の権力は反対を許さないほどに強いものであったために、日本の教育は「上からの権威」によって思うとおりに左右されるようになり、たまたま強く学問の自由を守ろうとした学者はつぎつぎに大学の教壇から追われてしまった。このようにして、政治によってゆがめられた教育を通じて、太平洋戦争を頂点とする日本の悲劇が着々として用意されていったのである。
 がんらい、そのときどきの政策が教育を支配することば、大きなまちがいのもとである。政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務を責任をもって実行していくような、りっぱな社会人を作るにある。そのような自主的精神に富んだ国民によって形作られた社会は、人々の協力によってだんだんと明かるい、住みよいものとなっていくであろう。そういう国民が、国の問題を自分自身の問題として、他の人々と力を合わせてそれを解決するように努力すれば、しぜんとほんとうの民主政治が行われるであろう。制度だけが民主主義的に完備しても、それを運用する人が民主主義の精神を自分のものにしていないようでは、よい結果はけっして生まれてこない。教育の重要さは、まさにそこにある。

この文書は、驚くなかれ、文部省の教科書である。「上」は1948年10月30日発行、「下」は1949年8月26日発行で、高等学校一年生用に編集されたが、のちには中学校三年生にも用いられたそうだ。『民主主義』だ。引用したのは「下」。

では、何をお考えいただいきたいか?

1.センター試験の「不祥事」と東大の秋入学などの根底にあるもの、それは「受験戦争」だ。家庭や子ども、先生たちを追い込んだのだ。これは個性化、自由化、国際化、多様化、などというコピーをつくってゆとりや選択制や中高一貫校の流布、成果主義の採用などの延長線上にある。これらはすべて高学歴と受験を優先させ、「受験戦争」を課してきたことにある。子どもの数の減少によって大学入学者が増えることになった。だが、その結果どうなったか?まさに「大学は出たけれど」現象の復活だ。
高学歴によって賃金は上がったが、それでは企業は儲からない。「ドル安=円高」もあり、企業は賃金の安い海外へ、国内では賃金を下げるために非正規を増やしてきた。95年以後だ。そのため30歳台を中心とした雇用・貧困問題が発生してしまった。

2.「日の丸」を礼拝させ、「君が代」を斉唱させるために職務命令を出すことで教育現場に多様な意見が出せなくなったこと、「ほうれんそう」が横行していること、職員会議が議論の場ではなくなったことだ。文部科学省からの方針(中教審などの審議会で決められた方針)が各県・各市の教育委員会に伝達され、教育現場に流布される、有無を言わせず徹底されるのだ。まさに官僚主義と中央集権主義が横行しているのだ。

こうして硬直した学校現場が醸成されてきたのだ。「受験神話」などを疑うことはタブーなのだ。このために多くの先生たちが、心身を壊し休職や退職を余儀なくされている。形は違うが戦前と同じだ。

そこで一つのたたき台だ。例えば、以下の設問を入学試験に出すとしよう。あくまで例えば、だ。実際は学校で学んでいる「水準」で出題することが望ましいが。

国民に痛みを求める政治と政治家を許して良いのか?
生活保護費受給者・自死者の多さをどう解決するか?
大儲けをしている人たちを支えている貧困層の生活をどう改善するか?
子どもへの放射能汚染をどう解決するか?
万年もかかる放射能を人工的につくる原発を再稼動させて良いのか?
主権在民の選挙制度とは如何にあるべきか?
普天間基地を沖縄の人たちに押し付けておいて良いのか?
日本はアメリカの核の傘にあって、他国の核政策を批判できるか?

どんな回答がでてくるか、解答はないのだ。評価の基準は、テーマに沿って書かれているか。挙げられている事実は間違っていないか。結論が自分の考えとして述べられているか、その考えは、根拠は具体的事実で示されているか、だ。これで採点をするのだ。
この手の問題を各教科で考えてみるのだ。当然授業、先生や生徒の数を含めて学校のシステムも変わってくるはずだ。

3.数々の「神話」から抜け出すために。
今日本は雛が卵の殻を打ち破る段階に来ているような気がする。今まで当たり前だった考え方=殻を、立ち居地を変えてみる必要を感じることが多い。「大阪維新の会」がもてはやされる、一つの根拠があるように思う。だが、愛国者の邪論は少し違う。旧いかもしれないが、その立ち居地とは日本国憲法だ。ないがしろにされ、忘れられてきた、この「ものさし」をもう一度使ってみることだ。それと多様な考え方を交流する場(メディア)が、あるようで、まだまだ不足しているので、これをどのように使うか、だ。
例えば今朝の「報ステ」原発問題は「民主VSみんな」&山本太郎さんだった。みんなの党とは、実に不思議な「VS」だった。また芥川賞作家のインタビューの映像がじゅうたん爆撃のように、今全国に流されているようだで、この手の情報伝達が横行していること。これを変えていくことだ。世界各地の「春」を見れば判るが、日本では、まだまだ、だ。

>少数意見を尊重し、教室全体を厚みのある議論に導きます。自己学習の意欲を高める指導ができる者こそ、本物の教師だといえましょう。

こういう実態が小数であること、それを見ると、どうも今の日本は、ある一つの方向に一直線に突き進もうとするベクトルの方に力が入れられているように思う。それとは逆の、別のベクトルも、たくさんあるのだが。そういうことを考えさせてくれた日野原理論だった。

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