愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

意見の違いはエネルギー源にもなる

2012-01-12 | 日記

今日の「朝日」の「声」欄に興味深い意見が掲載された。一つひとつをみると「その通りだな」と思うが、全体でみると結構意見の違いが見えてくる。

「地域エゴ」と「居住の自由」「絆」がそれを示している。
福島をはじめとして被災地の復興をどのようにすすめていくか、「バイオガソリン」も一つの案だろう。

だが、がれきの最終処分はたった3.5㌫だという。がれき処理がなかなか進まないのは何故か、住民の「地域エゴ」だけではないだろう。「地域エゴ」は何故生じるか。

政治の貧困がそこにある。では何故政治の貧困があるのか、政党や官僚や財界、メディアの責任は大きいが、その問題は脇において別の視点で述べてみる。

政治を営むのは政党や政治家だけではない。国民も同じだ。参政権は選挙権だけではない。人類があみ出した制度である参政権、これを活かすも殺すも、国民意識の改善が必要だ。

風評被害という国民意識も政治の貧困が作り出したものだ。対策が十分取られていないことからくる不安を反映しているからだ。

その点でいえば無党派層が増えるのもある種の風評被害だ。政党や政治家の活動が正しく伝わっていない、伝えられていないからだ。これを改善していくためには何が必要か。やはり国民意識の改善が必要だろう。

どのような改善が必要か、それは民主主義の再考・再興だろう。簡単に言えば民主主義は民が主という主義だから、その民こそが貧困を温存していることになる。デモクラシーのデモは人々、クラシーは統治力だそうだが、デモの統治力が民主主義ということになる。自治ともいえる。あなたまかせではない自らが主役ということだ。

意見の違いを認め合い、交流することで新しい発見=対策が生まれる。こうした共同=コミュこそが、今日本に大切だと思う。学校や職場や地域で、無数のコミュが形成されたとき、どんな社会が生まれるか、考えるだけでワクワクする。

ところで「朝日」の「声」欄は注目しているが、社の姿勢はこの「声」をどのように受けとめているのだろうか?

そう言えば、震災直後のコマーシャルにAC機構のコマーシャルが頻繁に流され、メディアジャックされた。あそこで流されたのはまさに「絆」「オールジャパン」だったように思う。当時、このAC機構を調べてきたら、とんでもないことがわかった。
http://www.ad-c.or.jp/acpartner/regular_list.html
http://www.ad-c.or.jp/manage/board.html
http://gigazine.net/news/20110318_ac_japan/

「絆」で調べてみると、こんな記事があった。
時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環毎日新聞 2011年12月11日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20111211ddm002070091000c.html
絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが「家族の絆」にゆだねられてしまいかねない点だ。
人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。

河合隼雄著「老いのみち」読売新聞社より (79)2008年05月11日 (日)
http://lokulog.blog43.fc2.com/blog-entry-868.html
これは平安時代の物語などを読むと「ほだし」と読まれ、それは馬の足にからませて歩けないようにする綱を意味し、出家して仏門に帰依したいときに、親子の情などの「ほだし」が邪魔になる、という意味に用いられているのである。青年期に人間が自立しようとするとき、親子関係などは「ほだし」として意識されるのではないだろうか。かと言って、親子の「きずな」が弱いほど人間は自立しやすいと言えないところに人間関係の面白さがある。
人間の死を最後の「自立」の完成の機会として把えるときも、この「きずな」と「ほだし」の関係は意味深いものとなるであろう。老人の生を支える「きずな」の存在のなかで、それを「ほだし」として把える老人に「自立」への志向があるとき、老人と周囲の人たちの「絆」の意味が深められてゆくのではなかろうか。絆を「きずな」として一方的に肯定するだけではなく、「ほだし」としてみる態度をもってこそ、老いや死を意味あるものとして迎えられることだろう。

「声」欄から
がれきの搬入拒否は地域エゴ 医師 佐野克行(静岡県掛川市56)
震災のがれきの受け入れを県単位で表明しても市町村で拒否されることが多いという。これは一つの地域エゴだ。
静岡県では島田市が岩手県から受け入れるため地元説明会を開いたが、「少しでも放射能があったらだめ」「風評被害が心配」と、市に数百件の抗議の電話やメールが寄せられた。受け入れを開始した東京都やこれから受け入れを開始する大阪府へは数千件の抗議があった。
岩手県のがれきは汚染されていないにもかかわらず、拒否するというのはいかなることか。風評被害と言うなら、地域の力で跳ね返せばよいではないか。
こどもの健康が心配というなら、全国で放射能の及ばない絶対安全な所があるか考えればよい。被災地のこどもはどう生きればいいのか。私たちはこれまで電気エネルギーの恩恵を受けて生活してきた。原発反対派でさえも、相当の電気を使っている。いまさら危険と無関係ということが許されるだろうか。
市民すべてが放射能を含めて、大災害のリスクを引き受け、安全のためにはどのような未来を設計するか考えるべきだ。自分の身の回りに来ないでほしいというだけなら、その人々も被災者の差別や風評被害の加担者にもなり得るのである。

原発避難居住の自由あるはず 地方公務員 長谷川和好(福島市59)
 福島第一原発事故以来、子どものいる家族を中心に福島市から山形県などに転居する人がかなりいる。
 私の職場でも山形県米沢市など、通勤可能で業務に支障のない程度の距離のまちに転居した人が数人いた。子どもたちの健康を考慮すれば、放射線量の高い福島市から数値の低いところへ転居することはおかしなことではない。
 しかし、最近、私も参加した職員労働組合の大会で、転居した職員が幹部職員から福島に戻るように説得されたとされるケースが報告された。福島市は人口が減り、復興を進めるために戻つてきてほしい気持ちはわかる。
 だが、幹部がそのような発言をすれば、職員は命令されたかのように受け取るのではないか。避難した職員たちは子どものことを考え、決断したのだろう。居住と移転の自由は憲法にも保障されており、その発言が事実とすれば、幹部はやりすぎだと思う。

福島復興はバイオガソリンで 無職大塚久彌 (千葉市花見川区 69)
 福島第一原発で被害を受けた福島県の人々を将来にわたって日本全体でバックアップする仕組みの構築が必要とされていますが、私はバイオガソリンをその起爆剤にしたいと考えます。
 原発周辺の放射線の強い地域は風力と太陽光を活用した一大発電基地とし、その外側の広い地域でトウモロコシを、周辺海域で海藻を栽培するのです。
 トウモロコシや海藻は食用でなくバイオエタノールの原料です。精製しガソリンに混入すれ上ば燃料になります。組成や生産、使用を国が義務付け、全国のスタンドで販売するのです。
 バイオエタノールのガソリンヘの混入比率はブラジルでは20~25%、アメリカでは10%程度ですが、日本ではせいぜい3%で、しかもほとんど普及していません。しかし、これを広く使うことによって、福島で農業・漁業に従事する人は、風評被害におびえず仕事を続けることができます。
 日本国民全体で将来にわたって福島を支援することができ、二酸化炭素の削減にも寄与します。新しい産業をおこし、新しい雇用を生み、日本経済全体の活性化への起爆剤的効果も大きいのではないでしょうか。

「絆」で原発事故を顧みた 無職苫米地好道(福島市 77)
 昨年の漢字は「絆」だったという。清水寺の貫主が書き上げた墨痕に感じ入りつつ、それがどこに当てはまるか戸惑った。
 振り返ると、国と県の対応には早いものと遅いものとがあった。遅いのは、情報提示、避難指示、放射線量測定・被曝検査・除染計画・実施、食品安全確保、賠償など、住民にとって緊急を要するものが多い。
 早いのは、県の健康安全キャンペーン、避難解除、原発輸出再開、コメの安全宣言など。知事のコメの安全宣言はその後基準値超えが見つかり、政府の「原子炉の冷温停止」宣言も同様にならなければよいが。
 私は、国と県のやり方には「絆」の持つ温かさがないと思う。広辞苑には絆は「①馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱」とある。この意味で使うと「原子力村」はぴったりだ。
 「原子力村」に甘い綱で繋ぎ止められている人たちよ、そこは危険である。絆を断ち切って自由になれ。

原発の利益に巣食うムラビトの絆(きずな)唱えて民ほだちたり
今の世の加害と被害ウラオモテあちらを立ててこちらも立てる

コメント
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