河北新報の社説を読んで、「とうとう、こういう主張が出るようになったか」と思った。この社説そのものは大いなる前進だ。だがいくつか問題もある。
政党交付金/国費頼みでは程遠い一人前 河北新報2012年01月21日土曜日
http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2012/01/20120121s01.htm
「身を削る覚悟」。政党の幹部や議員が最近、好んで口にする言葉だ。
消費税率の引き上げを含む社会保障と税の一体改革を断行しようというのだから、国会議員が率先して痛みを引き受けなければ国民に示しがつかない。
これは額の多寡ではなく、信義に関わる問題だ。四の五の言わず、やれることから始める。政治活動を税金に頼るという点で政党の自立を阻み、制度上もさまざまな問題点が指摘されている政党交付金の減額から始めてみてはどうか。
政党交付金は特定の企業、団体との癒着を防ぐため、企業・団体献金の制限と併せて導入された。1994年に成立した政党助成法に基づいて交付され、国民1人当たりの負担額は年間250円。
要件を満たした政党の議員数や得票数に応じて配分。昨年は制度に反対する共産党を除いた9党で約319億円を分け合った。ことしは民主党離党議員が結成した「新党きづな」と、国会議員5人で支給対象となった「新党大地・真民主」が新たに加わる。
政党とは何らかの政治的・社会的志向性を共有する自由な人々によって結成される集団だ。本来は私費で運営すべきだが、あえて「クリーン」な国費を投入することで「政治とカネ」にまつわる問題に区切りをつけようとした、いわば苦肉の策だ。
政党にとっては要件さえ満たせば自動的にカネが下りてくるのだから、これほどありがたい「米びつ」はない。自助努力を怠った結果、起きたのが「国営政党」化とも言うべき国費依存の体質だ。
10年分の政治資金収支報告書によると、民主党の政党交付金は171億1千万円で、収入の82.7%を占めた。14年からの企業・団体献金の全面禁止を前に、自粛を打ち出したことも背景にあるが、いびつな収入構造だ。
自民党は152億3千万円の収入総額のうち、政党交付金が102億6千万円(シェア67.4%)だったが、野党に転落したことが響いて交付金は前年比26.6%減少した。
この例から明らかなのは、交付金が選挙結果に応じて上下する「ボーナス」のような役割を果たしていることだ。金権打破を目指したのに、「票がカネ」になる皮肉な結果になっていると言わざるを得ない。
交付金をめぐっては、支給狙いの中小政党の「数合わせ」が頻発していること、政党が解散しても国庫に返納されないなど数々の不備が指摘されている。
政治活動の自由を保障するためとはいえ、使途の制限がないことも、モラルハザード(倫理観の欠如)を招いている。
岡田克也副総理は国会議員の歳費削減や国会議員の定数削減に加え、政党交付金の減額の必要性も指摘している。当然だろう。
政党が国費におんぶにだっこの「親方日の丸」体質にどっぷり漬かったまま、「改革」を口にするのは悪い冗談でしかない。大胆に切り込んでほしい。
この社説は「身を切る」論から発展してきた主張で、人権と民主主義という点からみたのではないという点で物足らない。だから「減額から始めてみてはどうか」とか「政党が国費におんぶにだっこの『親方日の丸』体質にどっぷり漬かったまま、『改革』を口にするのは悪い冗談でしかない。大胆に切り込んでほしい」に留まっている。
だが「何らかの政治的・社会的志向性を共有する自由な人々によって結成される集団」である政党は「本来は私費で運営すべき」だが、「『国営政党』化」したという認識は正しい。
だが、これだけでは足らない。何故ならば、これまでの日本のイデオロギーは、「国営政党」を「一党独裁」と批判してきた歴史がある。この「ものさし」を使えば、日本共産党以外の「国営政党」は批判されなければならない。この場合は「一党独裁」ではなく「他党独裁」だ。
だが、不思議なことに、この「他党独裁」を採用する「国営政党」たちは、実は日米安保条約=軍事同盟と大企業優遇というイデオロギー神話にどっぷり浸かっているという点においては、「一党」である。
ただ社会民主党は、この点で中間にいる。どちらかの立場に立つかどうか、突き詰めていくと、曖昧である。その曖昧さが良いといわれている場合もあるが、彼らは「踏絵」を踏むことはしない政党である。社会民主党も、この「ありがたい『米びつ』」のコメを食べてしまっている。
この「ありがたい『米びつ』」の値段は、「国民1人当たりの負担額は年間250円」だ。「米びつ」のコメを食べている議員は赤ちゃんから年金を払えない国民からも取っているのだが、議員はこのことを想像できないのだろう。「国庫に返納されない」「自助努力を怠っ」ているにもかかわらず、何らの「自己責任」も感じていないのだから。
この事実は、政党や政治家、そして国民の民主主義観を良く示している。
いわゆる「公務員改革」「議員削減」など「身を切る」論を支持する国民、公務員宿舎問題に怒る国民がいる一方で、この「米びつ」を「なくせ」の声は沸き起こらない。投書や社説で出されることはある。だが、少数だ。「廃止」という言葉は一向に出てこない。怒りが感じられないのだ。そもそも支持していない政党にカネを払わなければならないという視点からみれば、大いに問題ありなのだが、そうなっていない。
これは「『クリーン』な国費」論にみるように、私的政党が、公的政党として存在するかのようなトリックがかけられていることによる。公的な装いをもった私的な政党に対して、「無党派層」が「多数派」になる程度なのだ。そのトリックによって旧体制が温存されてきた。
「政党が国費におんぶにだっこの『親方日の丸』体質にどっぷり漬かったまま」というが、そのように漬からせてしまったのは誰だろうか?「悪い冗談」などと言っていられないだろう。ことは国民の思想信条の自由を保障するかどうかの問題なのだ。「大胆に切り込んでほしい」という程度ではなく、力強く「廃止」を主張すべきだろう。
何故マスコミが「廃止」を主張しないのか、政党助成金を広告費としてマスコミ自身が「米びつ」にしているからだ。選挙の時の広告をみれば明瞭だ。原子力ムラの構造を同じだ。
私的集団である政党の資金は利益集団である企業や労働組合などの団体からではなく国民から自前で集める「経営努力」こそ、本来の政党の姿ではないだろうか。そうしてはじめて「国民のための」政治が行われるのだろう。
国民も、どの政党がどのように資金を集めているか、きちんとチェックすべきだろう。自分が働いている企業の利益が労働者に還元されるのではなく、特定の政党に還元されていること、或いは組合費が支持していない政党に持ち込まれていることを厳しくチェックすべきだろう。
そもそも企業や労働組合は多様な思想信条を持った人たちによって運営されているのだから、特定の政党や団体に献金という資金援助をすることは、人権と民主主義という点からみたら大いに問題があるということに、そろそろ気付くべきだろう。
血税に群がる虫の姿見ゆけんきんけんきん鳴かぬ日もなし
ヒル山にけんきんムラの巣をつくる汗と涙と血の滴るを