愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

人類普遍の原理である人権を侵害する「命令」は「命令」として有効か?

2012-01-20 | 日記

今大阪で起こっていることは、異常で、関係者は勘違いをしているようであるので、コメントしておこう。問題意識は、
一つには、この大阪・東京で起こっていることが、あの北朝鮮や中国で起こったら、日本のマスコミはどう報道するだろうか?国民はどう思うだろうか?その視点で考えてみたい。
二つには、今起こっていることが憲法を教えるべき教育現場で起こっていることの意味を考えてみるということだ。

彼らの根拠である地方公務員法では、以下のようになっている。

地方公務員法
(服務の根本基準)
第三十条  すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
(服務の宣誓)
第三十一条  職員は、条例の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。
(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)
第三十二条  職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

とある。
「全体の奉仕者として公共の利益のため」「法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実」に従えということである。

「全体の奉仕者」とは、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」(日本国憲法第15条)のいうように、「国民全体」という意味だろう。

「服務の宣誓」とあるが、公務員の宣誓については、「職員の服務の宣誓に関する政令」(昭和四十一年二月十日政令第十四号)に以下のように書かれている。
宣誓書
私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。

とある。「命令」の前にあるものは「日本国憲法」である。公務員であっても日本国憲法を遵守する「義務」「責任」があるのだということだ。

だから「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第98条)と憲法の条規に反する「命令」は「効力を有しない」ということだ。

では「君が代」を「命令」として強制できるだろうか?わざわざ「命令の内容は各学校長が教職員に伝え、伝えた日時などを職員会議の議事録などに残すことも求め」なければならないような「命令」は普遍的「命令」だろうか?

しかも、この記事の内容を見る限りでは、子どもへ配慮・教育上の問題が完全に抜け落ちている。子どもに、わが国の「国歌=君が代」を歌え、「国旗=日の丸」を礼拝しろと教えることは教育的だろうか?このことが完全に抜けているのは為政者の「驕り」言っておこう。

そもそも「精神の自由に関する問題を、多数派の意向や思惑で押しきってはならない。それは歴史の教訓であり、近代民主主義を支える精神である。自分とは異なる意見の存在を受け止め、心の内にはむやみに踏み込まない。そうした寛容な土壌のうえに、しなやかで、実は力強い社会が生まれる」という指摘は極めて正しい。

二つ目の問題として考えなければならないことは、「日の丸・君が代」が「国旗・国歌」として「普遍」的であるならば、「命令」でなくして「すんなり」受け入れられるように「教える」ことを、まずやるべきだろう。その際には教えるべき教師の側に教育研究の自由を完全に保障しなければならないことは言うまでもない。さらには、教師は子どもの思想信条の自由、意見表明権も尊重しなければならないことも言うまでもない。

大人が最も考えなければならないことは、人権の守り手として、子どもを育てる学校で、「命令」が横行することの意味だ。こういうことが起こる教育現場では他人の人権を尊重する責任・義務を教えることはできるだろうか?多様な個性=思想や信条を認めあうことこそが、自分を認めてもらうことになるのだ。「いじめ」の根源には、このことの意味が欠落しているのではないだろうか?

何故大阪や東京で、このような問題が起こるか?それは日本では大日本帝国憲法の思想が残滓として色濃く残っているからだろう。「権利を言う前に義務を果たせ」とか、「嫌なら出て行け」「命令に従わなければ公務員を辞めろ」などというロジックが疑問をもつことなく流布している。弁護士である橋下市長に典型的に出ている。単純だが、これは歴史を踏まえないものだ。

これは一つには憲法の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(第99条)という「義務」論に対する無理解である。
二つには「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」(第97条)という歴史の無理解である。
三つには「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(第28条)という「権利義務」観の歴史と役割の無理解である。

最後には、大阪や東京で起こっている「国旗・国歌」問題に対して、「多数の」国民が支持している問題をどのように考えたら良いだろうかということである。多数が支持しているから「正しい」ということにはならない。唯一「正しい」のは日本国憲法の「理念」ということだけだ。

一つには、全体の奉仕者である公務員という位置づけである。戦前の天皇の「公僕」「下僕」観から「国民に奉仕する」公の労働者観である。雇い主は税金納入権を行使している国民である。公務員の権利と国民の権利、それらを守る責任・義務をどのように一致させていくか、ということである。
もう一つは、それに関連して言うならば、教育現場で「命令」を発している「上司」は、祝日に、家の門前に日の丸を掲揚しているだろうか、また礼をしているだろうか?国民も同様である。これが祝日に国旗を掲揚せず、礼拝しないというようなことになり、「処分」「排除」ということになってきた時に、この国の「常識」はどのように反応するだろうか?
三つには、南アやロシアあそうであったように、政治体制が変われば、国旗や国歌は変更されるということである。戦前の「遺産」が大日本帝国憲法下から日本国憲法下の日本に大きく変わったにもかかわらず、変更されず、むしろアメリカによって復活させられてきた歴史、公務員法も同様である。

そのなかで日本国の有り様が、根本的に議論されないまま、今日に至ったという事実だ。したがって、この問題をとおして、日本の歴史や有り様が、もっとまきおこることを期待したいものだ。教育現場だけでに任しておいて良い問題ではないからだ。

コメさへも米国の意になることを疑問ももたぬ瑞穂の国か


関連する記事を掲載しておく。

君が代の起立斉唱 大阪府教委が命令 全教職員1万3千人に
 大阪府教育委員会は17日、府立学校の全校長を集めた臨時校長会を開き、中西正人教育長が全教職員約1万3千人を対象に、入学式と卒業式での君が代の起立斉唱を求める職務命令を出した。起立斉唱を義務づけた全国初の「大阪府君が代条例」を踏まえた措置。近年の式典では毎回30~80人が不起立で、大量の処分者が出る可能性がある。
 教育長は、集まった校長と准校長計180人に「条例では国歌斉唱の際に教職員は起立により斉唱を行うことが定められている」「式場内のすべての教職員は国歌斉唱に当たっては起立して斉唱すること」との職務命令を読み上げた。命令の内容は各学校長が教職員に伝え、伝えた日時などを職員会議の議事録などに残すことも求めた。
 府教委はこれまで、起立斉唱は思想信条にかかわる事柄でもあることから現場での説得を重視。事前に「起立しない」と表明した教職員だけに職務命令を出していた。こうした対応が橋下徹・前知事に批判され、全国初の君が代条例成立につながったことから、今後は一律命令を出して条例順守を求める姿勢を明確にする。命令に反して起立を拒めば、地方公務員法に基づく懲戒や訓告などの処分対象となる。

命令違反2回は停職→減給 大阪府知事、最高裁判決受け(MEB上の記載)
職務命令違反2階は減給に 大阪府知事、条例案の修正方針(新聞表現)
 大阪府の松井一郎知事は17日、教育・職員基本条例案の職務命令違反に関する処分規定について、1回目の違反者の減給処分をやめ、2回目の処分も停職から減給に変更する修正方針を明らかにした。16日の最高裁判決で、君が代の起立斉唱をめぐる職務命令に違反した教職員への減給、停職処分に慎重な対応を求める判断が示されたことを考慮した。
 大阪府の教育・職員基本条例案では、1回目の職務命令違反で減給か戒告、2回目は停職の懲戒処分とし、同じ命令に3回背いた場合は民間の解雇にあたる「分限免職」と定めている。
 松井氏は記者会見で、2月府議会に提案予定の条例案で、1回目の違反は減給を削除して戒告のみに、2回目の処分は停職をやめて減給に、3回目以降は停職も選択肢に入れる考えを示した。違反のたびに職員を指導研修して「職務命令に従う」と誓約させ、誓約しない場合は「現場に戻せない」とした。
http://www.asahi.com/politics/update/0118/OSK201201180046.html

君が代判決―行き過ぎ処分に歯止め
 卒業式や入学式のシーズンを前に、最高裁から注目すべき判決が言い渡された。
 「式では日の丸に向かって立ち、君が代を歌うように」。そんな校長命令に従わなかった東京都の教職員への処分が、妥当かどうかが争われた裁判だ。
 結論はこうだった。
 規律や秩序を保つために、戒告処分はやむをえない。それをこえて減給や停職とするには、慎重な考慮が必要だ。式典を妨害したなどの事情がないのに、命令違反をくり返したというだけで、こうした重い処分を科すのは違法である――。
 日の丸・君が代は戦前の軍国主義と深い関係があり、その評価は一人ひとりの歴史観や世界観に結びつく。
 最高裁は、昨年の判決で「起立や斉唱を命じても、憲法が保障する思想・良心の自由に反しないが、間接的な制約となる面がある」と述べ、学校側に抑制的な対応を求めた。今回の判決はその延長線上にある。
 私たちは、日の丸を掲げ、君が代を歌うことに反対しない。だが処分してまで強制するのは行きすぎだと唱えてきた。
 その意味で、戒告が認められたことへの疑問は残るが、最高裁が減給・停職という重大な不利益処分に歯止めをかけたことは、大きな意義がある。
 教育行政にかかわる人、なかでも橋下徹大阪市長が率いる大阪維新の会のメンバーは、判決をじっくり読んでほしい。
 維新の会は大阪府と大阪市で「命令に2度違反で停職」「研修を受けたうえで3度目の違反をしたら免職」という条例の制定を打ち出していた。
 違反に至った背景や個別の事情には目を向けず、機械的に処分を重くしていくもので、今回の判決の趣旨に照らして違法になるのは明らかだ。
 さすがに橋下市長と松井一郎知事は見直す考えを示した。だがそれは、停職処分とする前にも研修の機会を設けるという案で、問題の本質を理解した対応とはとても言えない。
 選挙で圧勝した2人には、民意の支持という自信があるのだろう。もちろん民意は大切だ。
 しかし、精神の自由に関する問題を、多数派の意向や思惑で押しきってはならない。それは歴史の教訓であり、近代民主主義を支える精神である。
 自分とは異なる意見の存在を受け止め、心の内にはむやみに踏み込まない。そうした寛容な土壌のうえに、しなやかで、実は力強い社会が生まれる。
 判決の根底に流れるこの考えをしっかりと受け止めたい。
http://www.asahi.com/paper/editorial20120118.html#Edit2

コメント (2)
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