憲法改憲派の根拠である「押しつけ憲法」論について、前防衛大学校の校長であった五百旗頭氏が興味あることを書いています。この考え方は、1989年に書かれたものです。このような考え方を表明している学者が、防衛大学の校長をしていたのです。当時の政府自身が、この「押しつけ憲法」論に立脚していないか、明瞭です。
ということは、安倍首相が、国会等で、繰り返し振りまいている「押しつけ憲法」論の酷さが浮き彫りになります。そういう意味で、改悪改憲論の理不尽性・不道徳性が、よりいっそう浮き彫りになるのではないでしょうか。この愚かな「論」が、あたかも正当性のある「論」であるかのように、マスコミ、マスメディアをとおして振りまかれ、国民意識に一定の影響を与えていること、その犯罪性について、告発しておかなければなりません。
何故か。これはオレオレ詐欺と同じ手口だからです。「押し付けられた」などということは、大ウソだからです。ウソの「屁理屈」で、憲法という国家の最高法規(ブランド)を別のものに変更させようというのです。
これは、「どこどこの名産品を元につくった美味しい食べ物だよ」と言って、実は全く違っていたという、あの偽装食品と同じ手口です。これは詐欺です。日本国民、日本人として恥ずべきことです。不道徳の典型です。
こんな手口が許されるならば、何でもアリ!となります。この手口を一国の首相である安倍首相が平然と、しかもあたかも事実であるかのように粉飾し、マスコミも政党も批判しないのです。だから、公然と、改憲集会などで演説される、討論会などで主張されるのです。こうした無法を断固として断ち切っていかなければなりません。こんな無法を許す文化を容認することはできません。
仮に、ポツダム宣言を受諾し、日本政府が独自に「改革」を推進したとしたら、国際社会はどのように反応したでしょうか?三国同盟のドイツではヒトラーは自殺、イタリアは処刑、日本の天皇は?戦争犯罪人を裁いた東京裁判は天皇の戦争犯罪を不問にしました。大日本帝国憲法はそのままですんだでしょうか?「押しつけ憲法」と言いますが、「押し付けられた」と考えているのは、一体どのような人たちのどのような思想でしょうか。そのことを浮き彫りにしなければなりません。逆に言えば、「押しつけられなかった憲法」とはどのような憲法を考えているのでしょうか?全く反動と言わなければなりません。
もう一度指摘しておきます。「押しつけ憲法」論は偽装・偽造の屁理屈です。詐欺です。以下の指摘を、安倍首相と首相派はどのように説明するのでしょうか。
1.国際社会から追及されていた天皇制廃止の声をかわすために戦争放棄条項が採用された。
2.国際社会に対して戦争放棄宣言を表明することで、日本への信頼を回復しようとしていた。
3.日本国憲法の国民主権思想には、自由民権運動以来の人権思想が取り入れられた。
4.憲法研究会の憲法案が採用された。
5.マッカーサーの帰国にあたって国民が取った行動など、国民は歓迎した。
6.政府案や他党の草案と根本的に異なる天皇制を否定する人民主権を求める日本共産党の憲法草案が提案されていた。
共産党の憲法論・天皇制論・安全保障論は一貫している!それは主権は国民にあり!敗戦直後の文書から 1(2013-10-26 08:26:57 | 日記)
7.新しい選挙制度にもとづく選挙によって選出された国会において新憲法草案が審議されて決定された。
8.マッカーサーに対する感謝決議が、自民党の先輩(しかもその中には安倍首相の血縁者が名を連ねている!)によって提案され、決議された。
第010回国会 本会議 第30号昭和二十六年四月十六日(月曜日) 午後二時十七分開議
ダグラス・マツカーサー元帥に対する感謝決議案(佐藤榮作君外三百九十四名提出)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/010/0512/01004160512030a.html
第010回国会 本会議 第36号昭和二十六年四月十六日(月曜日) 午後三時十一分開議
ダグラス・マッカーサー元帥に対する感謝決議案(大野木秀次郎君外五名発議)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/010/0512/01004160512036a.html
9.憲法九条の思想は、国家の政策としての戦争を違法化した不戦条約や紛争の解決は非軍事的手段で解決するとした国連憲章に、由来をみることができるのであって、とっぴなことで提案されたものではない。歴史の発展過程の一つを示した。
10.しかも、この不戦思想は、中世以後の日本の歴史のなかで農村において形成されてきた「掟」思想=民主主義思想、近代日本に形成されてきた軍備全廃・縮小思想を根拠にしていること。
以上の事実経過を無視・隠蔽した安倍首相派、憲法改悪改憲論者が吹聴する「おしつけ憲法」論は、マスコミ・マスメディアの遡上の載ることが、如何に詐欺的行為に加担したものであるか、再度強調しておきたいと思います。これは詐欺・犯罪なのだということを声を大に言っておきたいと思います。こうしたウソ・詐欺が、如何にして国民を不幸のどん底に陥れていったか、他国民を如何に殺し、その財産を奪っていったか、日本人と日本国民は今一度歴史に立ち返って考えてみるべきではないでしょうか。
それでは、以下ご覧ください。
五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫05年5月刊)
ところが、四五年、一二月にモスクワで開かれた米・英・ソ外相会議は、日本管理のための政策決定機関である極東委員会をワシントンに置くこと、連合国最高司令官の諮問機関として対日理事会を東京に置くことに合意していた。四六年二月一六日に発足が予定されていた極東委員会の介入を嫌ったマッカーサー司令部は、その活動が本格化する前に、自らの活動が本格化する前に、自らのイニシアチブで憲法改正を実施し、戦後日本政治の枠組みを固めてしまおうとする。幣原内閣は松本烝治国務相を中心に、委員会を設けて憲法改正案を作成していたが、この案が明治憲法から多くを出ない保守的なものと思われたことも、その決断を促進した。
四六年二月三日朝、マッカーサーは、天皇制存続、自衛権を含む完全な戦争放棄、封建制の廃止の基本方針(「マッカーサー三原則」)を示して、民政局に新憲法草案の作成を命じた。この栄誉を与えられた民政局は合宿状態の突貫工事を行い、十日後の十三日に憲法草案を完成した。ホイットニー民政局長は松本試案の受理を拒否し、用意した民政局草案を日本政府に提示し、受諾を強く求めた。
ホイットニーは吉田外相、松本国務相に対して、「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。…しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。さらには最高司令官は、これを受け入れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております」(「マイロ・E・ラウエル文書」第十六号)、『日本国憲法制定の過程』Ⅰ所収)と迫る。この草案を受け入れなければ天皇の運命は知らぬ、「戦争放棄」条項が天皇存続に効果的である、という論法であった。
アメリカ国内や連合諸国のうちに根強かった天皇制廃止論は、天皇制を存続させると再び軍国主義と結びついて、日本が世界平和を乱しかねないという認識に基づいていた。天皇制それ自体が封建制の遺物であり、反民主主義的であるとの見方もあった。アメリカや関係諸国にとって
どうしても譲れないのは、太平洋の安全、すなわち日本が再び暴発しないということであった。その観点からすれば、「戦争放棄」という前例のないことを憲法に書き込むことの重さが、天皇制の許容に際して大きな効果を持つことは明らかであった。
幣原首相や吉田外相らは抵抗を試みたものの、二月二十二日、結局受け入れた。そして三月六日には「憲法改正草案要綱」として発表し(主権在民・天皇象徴・戦争放棄を規定)、また四月十七日には口語体・ひらがな書きの「憲法改正草案正文」を発表した。十月七日、衆議院を通過して、日本国憲法が成立し、十一月三日に公布された。
この日本国憲法案が発表されると、国民は熱く歓迎した。憲法がアメリカ側に強制されたものであることは、以上の経緯から明らかである。GHQが日本政府が準備していた松本試案をはねのけて、これで行かねば天皇制は知らぬと、日本の指導層の泣きどころをついてマッカーサー草案を押しつけたのであるから、事実関係から言えば押しつけである。しかしながら、日本政府は正規の手続きによってこの案を検討・修正のうえ、決定した。さらに、この憲法を国民の圧倒的多数が、内容的に歓迎したのである。
われわれは剣をもてあそんで、壮大なフィクションとしての「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」などに狂奔した。どんなに空しかったか。われわれは今後は自らの足下をしっかり見つめ、文化的なものを持った平和な国民として生きていきたい。五大国でなくても、貧しくても、平和で公平な社会を再建したい―という気持ちが、戦後の日本国民には非常に強かった。少なくとも、もう一度武器をとることだけはごめんだ、というのが国民の広範な願いだった。それだけに公布されると日本国憲法に対しては、これこそわれわれが望んでいたものだった、という反応が強かった。(略)
このように、民主化は大いに結構、われわれが欲していながらなかなか得られなかったものだと、国民は日本国憲法を歓迎した。その意味で「押しつけ憲法論」は一面的であり、経緯はともかく、内容的には国民の意に反するものでなかったことを忘れてはならない。
「押しつけ憲法」論は、たとえてみれば自分を育ててくれた父親が、自分が成人するころになって母親と離婚すると言い始めるようなものである。どうしてかと聞けば、父親は、わしは本来、結婚は自由恋愛によるべきだと考えてきた。しかるにあの時、親によって結婚を強制された。しかしわしはどうしても自由恋愛でなければいかんと思うので、やはり母さんと別れる、という。子どもにすれば、自由恋愛主義のいいが、母親のどこがよくないのか。器量も十人並みだし、家族の世話もよくしてくれているし、申し分ないではないか。どこがいけないのか、変なこだわりから、この生活を破壊しないでもらいたい、となる。
日本国憲法は成立のいきさつが押しつけであるから我慢できぬ、民族の誇りが許さぬという「押しつけ憲法」論に対して、その日本国憲法下で自然に育った世代は、どこがいけないのかと考える。参議院の制度が具合が悪いとか、具体的弊害を言うなら考え直さねばならないが、そもそも憲法をご破算にしなければならないなどという議論は、いいかげん大人になって卒業したらどうか、と諫めたくなる誠実のものである。
ところで、戦争放棄条項の起源については、いまも議論が続いている。日本政府側がマッカーサーの発案であると信じているのに対し、マッカーサーは幣原首相の提案にもとづくと回想している。双方に一面の真理があるように思われるので、私は田中英夫教授の二段階説に同意したい(田中英夫『憲法制定過程覚書』)。
つまり、四六年一月二十五日にマッカーサーに会見した幣原が、日本政府の対外声明を念頭に置いて戦争放棄を口にした。これに賛意を表したマッカーサーが、憲法に明文化するかたちの指示を出した。憲法に条文化することは幣原の予期せぬところであったが、日本政府が国際的信用を回復するための戦争放棄声明を考えたのは幣原である。このような二段階説が穏当な解釈ではなかろうか。
ともあれ、こうして新憲法が成立し、ひとたび制定されると、すべての改革がこの基本法に沿って進められることになった。
(本書は、一九八九年十二月、大阪書籍(株)より刊行された同名の書を底本としました。)(引用ここまで)