自らの政治の失敗を他人の責任に転嫁する不道徳!
前号では、橋下氏自らが担当した大阪府市政の失政に対して、無反省であること、その責任を子どもに負わせ、自らは責任を取らないこと、そればかりか、またまた政治利用を謀っていることについて書きました。
ここで特徴的なことは、子どもの「荒れ」「蛮行」の原因を探し、対策を家庭と学校と地域ぐるみで解決するという手法をとるのではなく、部活や進学、学力の実績・成績・成果を上げることを軸に、教職員と学校をガンジガラメに縛ること、上司の命令に絶対服従を要求することで、解決できると、誤った特殊な思想に基づく大阪府政と市政を行ってきたのです。大阪の特殊な政治手法・手口によって大阪府民・市民の生活はどうなっているでしょうか。以下ご覧ください。
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こうした府民・市民の生活のなかで、子どもが育てられているのです。こうしたことをスルーして、子どもの「蛮行」に目を向けさせて、あまりの酷さを強調することで、それらを口実にして、子どもを「隔離」=「囲い込み」=「収容所」に送り込むことを正当化しているのです。そもそも、こどもが「レベル1からレベル5」までに突き進むまで、何をしていたのか!という問題はいっさい記事に書かれていません。これでは、子どもが白骨化するまで放置していた厚木市の事件と同じではありませんか。何故、その前に手を打たなかったのか。
子どもの「蛮行」を放置したまま、「危機」「脅威」として煽り、自らの政治失政に対する責任を放棄・免罪し、更には子どもの多様な実態を無視したランクづけをして子どもを区分・差別し、また特別に個人指導をするなどとして、囲い込みを正当化する手口は、安倍首相の思想と手口をほとんど同じです。その最大の特徴は、国民の意見は無視をするということです。事実をスルーして、自分の結論に、トリックを使ってはめ込んでいくという手口です。最初から結論は決まっているのです。
このことは、以下の手口と同じです。
それは、憲法改悪をめざしていましたが、明文改憲が不可能であることから、解釈改憲に方向転換をしながら、それを正当化するために、砂川事件裁判判決や憲法の条文、集団的自衛権行使を否定した内閣の閣議決定や国会決議などを曲解し、「丁寧な説明」と称して、あれこれの非現実的な事例を出しながら、そこに結論を当てはめていこうとするのです。しかし、それが批判されると、これまで使ってきた原則をつまみ食い的に利用しながら、何としても集団的自衛権を行使できるように、新たな事例を出すのです。いわば、どんどん土俵を広げて、自分の枠内での議論にもっていこうと、ごり押しをしているというところです。
しかも、このごり押しには、中国や北朝鮮の「蛮行」と「脅威」を最大限利用しているのが特徴です。日本は侵略戦争を反省し教訓化して制定した日本国憲法の国際平和協調主義を使った経済的・人的・文化的交流、すなわち平和外交路線を使って国際平和の構築を国是として国際公約したにもかかわらず、この対話路線を使うことをサボり、危機を泳がせ野放しして放置して、これを口実に脅威を煽り、それに対する抑止力として日米軍事同盟の深化を謀るために集団的自衛権の行使を容認しろと国民を恫喝しているのです。
対話を実現すれば、侵略戦争認識、植民地膨張主義についての認識が問われるからです。尖閣も竹島も、日本領土であり、「問題はなし」、「対話をする根拠もなし」ということを前提としていることを口実に対話を拒否しているのです。「窓口は開いている、対話の扉は開けている、拒否しているのは中韓だ」として、対話を実現しようなどという発想は微塵もありません。
ところが、拉致問題の解決のためには訪朝もあり得るなどと言っているのです。安倍首相が、対話を使い分けていることは明らかです。それは対中包囲網作戦を正当化するためです。経済界のトップ米倉会長は訪中して商いをしているのに、です。ここに姑息な安倍首相の人間的退廃があります。目的のためには手段を選ばず、なのです。
自らの思想を優先させる人権軽視思想
この両者に共通していることは、国家の最高法規である日本国憲法を否定する体質が、ますます浮き彫りになってきていることです。以下ご覧ください。ここには、近代市民社会の最高の位置にある日本国憲法の人権尊重主義を土台にした国民主権主義を使って構築する国際平和協調主義はありません。
憲法9条の根本思想は非軍事的手段による紛争解決!
そこで、再度強調しておきます。憲法第九条です。
日本国民は、国際紛争を解決する手段としては、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇=脅し=軍事抑止力又は武力の行使は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するという国際公約を果たすために、永久に放棄する。前項の目的(=正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するという国際公約)を達するため、陸海空軍その他の戦力(軍隊)は、これを保持しない。国の交戦権(宣戦布告権)は、これを認めない。
そのために、日本国民がやること、すなわち、国際紛争を解決する手段としては、非軍事的抑止力を使うということを宣言したのです。それは何か。国連憲章が明記している平和的解決を使うということです。対話外交の徹底化です。経済交流・スポーツを含めた文化交流です。当然人間の交流が土台です。
国連憲章を尊重する振りをしながら黙殺する不道徳!
安倍首相は、国連憲章第51条を根拠にして集団的自衛権の行使を正当化していますが、以下の国連憲章や侵略の定義を見ることで、その身勝手さが、いっそう浮き彫りになります。恐るべき政治家と言えます。以下ご覧ください。
第1条〔目的〕 国際連合の目的は、次の通りである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3.経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4.これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること。
第33条〔平和的解決の義務〕
1.いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他の当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。
2.安全保障理事会は、必要と認めるときは、当事者に対して、その紛争を前記の手段によって解決するように要請する。
第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。(引用ここまで)
愛国者の邪論 「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合」とありますが、「武力攻撃が発生」しないために、国連と国連加盟国は何をやるか、その前提が、安倍首相には、全く欠落しているのです。いや意図的に欠落させているのです。しかも、この国連憲章第51条をはじめとして、国連の提起する軍事行動に対して、憲法9条を持つ日本としては、参加できないことを確認したうえで国連に加盟しているのです。だからこそ、日本の自衛権発動の3要件において認めながらも、集団的自衛権については求めてこなかったのです。
憲法9条は対等平等の対話の徹底化を原則にしている!
子どもの生活にも徹底させるべき価値のある9条!
愛国者の邪論は、憲法第9条の理念にもとづく自衛権とは、軍事力ではなく、非暴力・警察権の範囲内で定義すべきと考えるものです。それは、ともかく、憲法第9条を使って対話によって紛争を解決するという思想は、国家と国家の関係ばかりか、民族と民族の関係にも、また個人と個人の関係にも適用するものであることは、国連憲章と日本国憲法にも明記されていることです。それは、日本国憲法前文の以下の部分にも明記されています。
われらは、いづれの国家も、自国(民族・個人)のことのみに専念して他国(民族・個人)を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国(民族・個人)の主権を維持し、他国(民族・個人)と対等関係に立たうとする各国(民族・個人)の責務であると信ずる。(引用ここまで)
この政治道徳こそ、非軍事・非暴力的手段=対話=平和的解決によって紛争を解決するという第9条そのものなのです。この第9条こそ、対等平等の関係を前提にしてはじめて成り立つものです。戦争、武力行使、暴力・軍事的脅し=軍事的抑止力は、以上の前提そのものを否定し、破壊するものです。強者と弱者の関係だからです。これは19世紀までの思想です。21世紀の現代社会にあっては、この思想と原則を具体化すべきことが各国と人民に課せられた責務なのです。このことは、日本国憲法の以下の前文にも明記されているのです。
…日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(引用ここまで)
愛国者の邪論 どうでしょうか。紛争の除去のために、国際社会は何をなさねばならないのか、侵略戦争を経験した日本国民は、戦争や武力行使、武力による威嚇を防止していくために、日ごろから何をしなければならないのか、明瞭です。しかも、安倍首相が、事あるごとに強調している「侵略」「蛮行」については、現代社会においては違法行為とされているのです。以下ご覧ください。
脅威を煽りながら「侵略の定義」の存在すら否定する安部首相
侵略の定義に関する決議 - University of Minnesota Japanese Page
(1974年12月14日に国際連合総会の第29回総会で採択された侵略の定義に関する決議)
第一条(侵略の定義) 侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう。
第三条(侵略行為) 次に掲げる行為は、いずれも宣戦布告の有無に関わりなく、二条の規定に従うことを条件として、侵略行為とされる。
(a) 一国の軍隊による他国の領域に対する侵略若しくは、攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果もたらせられる軍事占領、又は武力の行使による他国の全部若しくは一部の併合
(b) 一国の軍隊による他国の領域に対する砲爆撃、又は国に一国による他国の領域に対する兵器の使用
(c) 一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖
(d) 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に関する攻撃
(e) 受入国との合意にもとづきその国の領域内にある軍隊の当該合意において定められている条件に反する使用、又は、当該合意の終了後のかかる領域内における当該軍隊の駐留の継続
(f) 他国の使用に供した領域を、当該他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する国家の行為
(g) 上記の諸行為い相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与
第五条(侵略の国際責任) 政治的、経済的、軍事的又はその他のいかなる性質の事由も侵略を正当化するものではない。 侵略戦争は、国際の平和に対する犯罪である。侵略は、国際責任を生じさせる。 侵略の結果もたらせられるいかなる領域の取得又は特殊権益も合法的なものではなく、また合法的なものととし承認されてはならない。(引用ここまで)
愛国者の邪論 どうでしょうか。現代国際社会において、「侵略」は違法行為であって、この違法行為を国際法に違反して起こす場合は、それなりのペナルティーが課せられているのです。ところが、集団的自衛権を行使したい安倍首相は、こともあろうことか、この「侵略の定義」決議を否定しているのです。国連憲章第51条〔自衛権〕を根拠にしながら、国連憲章第1条〔目的〕・第33条〔平和的解決の義務〕を黙殺しているのです。この身勝手さは、国際社会で通用するでしょうか。勿論国内においても、です。以下ご覧ください。
「侵略の定義」など安倍首相の歴史認識に関する質問主意書 - 衆議院 2006年9月19日
衆議院 侵略の定義も知らない知的退廃 - 祭りの後の祭り - はてなダイアリー 2013年4月28日
成り立たない 安倍首相「侵略の定義」否定発言/国際社会で生きる道なくなる 2013年5月12日
日米同盟を揺るがす安倍総理の「侵略の定義」発言|大西良雄ニュース 2013年5月20日
侵略の定義は定まっていない - ヒューマンライツ·ナウ 2013年8月2日
個人の尊厳より国家・公に服従させる安倍・橋下氏!
愛国者の邪論 安倍首相も橋下市長も、人類が積み上げてきた原則を無視して、スリカエ、自らの思想を正当化し、国民と市民を、自分の思想の枠内に閉じ込めようとしているのです。彼らの思考回路の中にあるのは、個人の尊厳などありません。国家のために、個人は犠牲となって当然である。国家によってこそ、個人は守られる、だから、国家という「公」を尊重しなければならないという短絡思想が棲みついているのです。
安倍首相が立憲主義を否定してなお、国民の人権や権利を守るなどといっているのは、限定的人権擁護論です。かつての大日本帝国憲法の「臣民の権利と義務」思想が腹の底に沈殿し、時にはそれが噴き上がってきて、胃袋の中をいっぱいにしながら、口から吹き上げてくるのです。ゲッを出しているのです。彼らが病的であると言わざるを得ない理由は、このことを指しているのです。
言葉・口と行動・実際の違いを見抜くためには一つ一つ暴いて!
彼らは、口では人権の尊重とか平和解決、積極的平和主義などと、あたかも、自分たちが人権擁護家であり、平和主義者であるかのような演説をしていますが、身体の隅々にまで、人権と民主主義を敵視し、抹殺していきたいと思っているのです。その最終的チャンスは、憲法改悪の際の一票です。この成功に向かって、一歩一歩、国民を説得するために手練手管を弄しているのです。
軍事抑止力・安全保障論から人間安全保障論へ転換を!
貧困をなくし、福祉や教育を充実させるという人間の安全保障論などという思想は微塵もありません。対等平等な立場に基づいて徹底して対話によって紛争。問題を解決するなどと言う発想は全く欠落しています。あるのは日本型多国籍企業の利益を代弁する代理人の立場です。このことはゲンパツ問題をみても明らかです。子どもの人権を尊重し、子どもの貧困をなくし、幸福を追求する権利を保障するなどという思想はありません。
5月15日の記者会見では、おじいさんやおばさんの命を安全を守るなどと大見得をきりましたが、震災関連死をした人たちへの謝罪も反省もありません。あるのは自画自賛です。そもそも、沖縄の祖国復帰が決まったこの15日に、集団的自衛権の行使を容認させるための事例(橋下流の手口で言えば、レベル1からレベル5までの事例と対策に当てはまります)を発表しましたが、沖縄のことなど微塵もありませんでした。集団的自衛権が行使されれば、被害を受けるのは、アメリカ軍の基地が配備されている沖縄が攻撃されるのは当然です。しかし、安倍首相の口から、沖縄の米軍基地の負担軽減の問題などはありませんでした。その替わりに登場してきたのが、おじいさん、おばあさん、お孫さんでした。
そもそも、この15日とは、安倍首相にとっては大事な日です。それは、水島朝穂氏の『世界』(7月号参照)に書かれている以下の言葉をみると、唖然とする、と言うか、納得するのです。
湛山が倒れたあとに首相になったのが岸信介である。その孫が、父・晋太郎の命日(五月十五日)をわざわざ選んで、とうとうやったよと目を潤ませたとしたら、それは、隣国の三代目独裁者が、祖父と父を過度に意識して、知的でも誠実でもない態度で暴走しているとほとんど変わらないだろう。(引用ここまで)