迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

のせさせたまへわたしもり。

2016-10-30 18:20:49 | 浮世見聞記
かつて多摩川には、舟渡しが数ヶ所存在してゐた。

しかし、明治時代以降には次第に橋が掛けられるやうになり、役目を終えた渡し舟は、その全てが姿を消した。

東京都狛江市と神奈川県川崎市多摩区にかかる「多摩川水道橋」の河川敷には、両岸に古い貸しボート小屋がある。

これはかつて、ここに「登戸の渡し」があった時代の名残りだと云ふ。




そんな多摩川の渡し場のひとつであった「丸子の渡し」が、温故知新の地域活性化イベントとして、一日限りの“復活”を果した。



平安時代の古文書に、すでにその名が確認できると云ふ丸子の渡しは“まりこのわたし”とも云はれ、古へから重要な交通路として、その役目を果たしてゐた。



天正年間に江戸と平塚の中原を結ぶ街道として整備された「中原街道」は、江戸時代には本街道である東海道よりも江戸への近道であったことから通行量も多く、道筋にあたる丸子の渡しはいよいよ重要度を増し、付近には集落もできて賑わったと云ふ。

昭和10年には丸子橋が完成したが、道幅が狭くて通行に不便であったことから、渡し場はその後も昭和30年代頃まで、大事な渡川手段として活用されてゐた。

目黒区祐天寺で生まれ育った母も、この舟渡しのことを幼心に記憶しており、会場の回顧写真展に展示された、



このやうな光景を、おそらく目にしてゐたのだらう。

この当時の渡し賃は20円、今回の復活イベントにおける渡し賃は500円、空気の冷たゐなか一時間ほど並んで待ち―当時の旅人も舟に乗るためにこれくらいは待ったことだらう―、東京都大田区側から川崎市中原区側へと渡ってみる。



川面では、時間が水の流れとおなじくゆっくりと流れ、



わずか数分の乗船ながら、古への旅人とおなじ“悠久”の空間に、心を重ねあわせる。


そして私は舟をおりると、再び“今日”といふ旅のつづきを、歩き出す。
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