現在は70'大阪萬博の資料を展示した記念館となってゐる「EXPO'70パビリオン」は、もともとは「鉄鋼館」と云ふパビリオンで、

建物じたいが樂器と云ふ趣向の音樂ホールとして造られ、當時から閉幕後も殘すことが決ってゐた貴重な生き証人、平成二十二年(2010年)には閉幕以来非公開だった“スペースシアター”が復活して、

當時斬新だった音樂世界を、令和現在もそのままの魅力で演出してゐる。
目當ての初代“黄金の顔”はその別館に展示されており、

あの左目のところに、開催中には目立ちたがり屋の男がしばらく棲みついてゐたのか、と當時の觀客になった氣分でしばし見上げる。
このEXPO'70パビリオンでは、萬博開催時における女性係員たちを中心としたユニホームを展示した企画展が行はれてゐたので、併せて觀る。

會場では“ホステス”と呼ばれた各パビリオンで働く女性たちのユニホームも、ファッションリーダーとして萬博の呼び物云々、

海外各國がデザインに工夫を凝らすなか、國の威信をかけて開催するニッポンも氣鋭のデザイナーたちを起用して最先端の知恵と工夫を凝らし、

簡素且つ活動的にして、女性としての魅力存分も惹き出した“萬博モード”を編み出す。

特徴は當時流行のミニスカートを採り入れたことで、姿勢によっては脚が際どくなるこの衣裳を、上品上手に着こなしてゐた當時の女性たちの冩真に、ほう、と感心する。

片膝を内に入れて地面に膝をつく座り方、令和のお姉さんたちは御存知?
會場内の移動手段のひとつに、當時は未来の交通機關だったモノレールが運行され、

その車両デザインは令和でも通用する魅力を放ってゐたが、萬博閉幕後は動力の一部を東京モノレールに転用したほかは解体され、現物は目に出来ない。
が、現在は門真市と大阪(伊丹)空港を結ぶ大阪モノレールが、支線も含めて萬博記念公園のそばを通ってゐる。

萬博のモノレールと大阪モノレールとに經營上のつながりはないが、昭和四十五年當時に現出した未来は、“人類の調和”はさておき、少しづつカタチにはなってゐるのだな、と思ひつつ大寒波に凍えた體をあの車内で少しでも温めんと、驛に急ぐ。