青年は石段を駆け上がってきたわたしに気が付くと、スケッチブックから顔を上げて、
「あ、すみません…」
と慌ててスケッチブックを閉じ、Dバッグを掴んで立ち上がって、脇によけようとしました。
「ああ、そんな、いいんです…」
と、こちらこそ慌てて両手を振るわたしを見て、青年はその端麗な面差しに「…?」といった表情を浮かべると、
「あの…、もしかして、先ほど文化ホールで…?」
わたしは確かに、自分の胸がドキンと鳴ったのを聞きました。
「え?はい…」
「やっぱり、そうですか…」
青年はニコッとしました。
それは、美しさのなかにどこか少年っぽいあどけなさを残した表情でした。
「あの時はビックリしました…」
「お恥ずかしいところを…」
「お怪我、本当にありませんでしたか?」
「はい、本当に大丈夫です…」
と言ったきり、あの時ように、またお互いに続きの言葉が出て来なくなって、
「……」
「……」
そして思わず吹き出して。
でもそれが、わたしたちを話し掛け易くするキッカケとなって。
「でもよく、あれがわたしだってお分かりになりましたね」
「ああ、いま声を聞いて…」
「そうですか…」
「それと…」
美青年はちょっとはにかんだような瞳(め)をして、「目元…」
「目元?」
美青年は自分の目元を指差して、「紅…」
「紅?」
「うっすらと残ってます…」
あっ、とわたしは、自分の両方の目元を指先でこすると、目張(めは)りの紅が薄く一筋…。
うわぁ…!
「すみません、ありがとうございます。ちゃんと落としきれてなかったみたいで…」
わたしは急に恥ずかしくなって、まだ白粉が残っていないか、慌てて耳の後ろをこすってみました。
「やはり、舞台化粧って顔の雰囲気を変えるものですね」
「実物はこんな顔です。スミマセン」
無意識のうちに、わたしは軽口を叩いていました。
わたしは人見知りはしない方ですけど、初めて会うような人にこんな事を口にしたことはありませんし、実際そんなことは後にも先にも、この時だけです。
何て言うのかな、彼には人をそんな気にさせる、親しみやすさみたいなものを持っていました。
「あ、別にそんな悪い意味で言ったんでは…」
本気で困惑したらしい彼の様子が、わたしには愛らしく映りました。
「冗談ですよ」
「はぁ…」
わたしは彼が小脇に抱えているスケッチブックに目を留めました。
「写生中、だったんですか?」
「ああ…」
彼はスケッチブックをちょっと振ってみせて、
「…そうですね」
「絵を描くのが趣味なんですか?」
「と言うか、画家…、“絵師”志望なんですよ、僕」
「えし?」
「はい」
彼が誇りを感じさせる頷き方をしたからでしょうか、わたしは彼のスケッチブックのなかを見てみたくなりました。
「どんな絵を描かれるんですか?」
「あぁ…」
彼はまた、瞳(め)はにかんだ表情を浮かべました。
…そうですね、彼は端麗な顔立ちのなかでも、特に瞳(め)が綺麗でした。
本当にいい瞳をしていました。
いつまでも見詰めていたくなるような…。
「まだ勉強中ですから、人に見せたことがないんですけど…。でも、あの、よろしければ…」
「いいんですか?」
「はい」
彼は整った唇を三日月に結んで、
「ただし…、期待しない、と云う約束で」
「そんな…」
彼がおずおずと差し出すスケッチブックを、わたしはおずおずと受け取って、表紙を開きました。
そこには、鉛筆による風景のデッサン画が、何ページにもわたって広がっていました。
そしてそれは、絵のことはよく分からないんですけど、洋画っぽくなくて、和物系な感じだったんです。
はっきりそうとわかったわけじゃないんです。
何て言うんだろう、目にした瞬間、日本人としての心がそれを読み取った、みたいな…。
鉛筆で描かれているから当然モノクロなんですけど、でもわたしには、そこから色鮮やかに彩られた原風景を彷彿とさせることが出来ました…、いや、わたしが、ではなくて、彼の絵に、それだけの魅力(ちから)があった、と言うべきです。
「……」
気が付くと、わたしは彼のデッサンを真剣に鑑賞していました。
「どうです、かね…?」
彼は不安そうにわたしに訊ねました。
「羨ましいくらいの才能だと思います」
それが、この美しい青年がスケッチブックに描いた世界への、高島陽也の正直な感想でした。
「“いいもの”を見せていただきました」
わたしはスケッチブックを丁寧に閉じて、彼に返しました。
「ありがとうございます…」
彼は面映ゆそうに作品を受け取りながら、「これで少し、自信が持てます」
わたしの右手は、自然と彼の腕に触れていました。
「少しだなんて…。“大い”に持ってください。絵を始められて、どれくらいになるんですか?」
「本格的に始めたのは高校一年の時だから…、五年くらい、ですかね」
「って言うといまは…」
「今年で二十歳になりました」
「わたしも今年の十二月で二十歳になるんです。ということは、同年代…!」
「へぇ…!」
このあたりから、何だか数年前からの知り合いみたいな感じになってきました。
「ぜひ、成功してほしいです」
「でも、今はまだまだ、基礎を固めている最中です」
……。
“基礎”と云う言葉に、わたしの心は微かな音を立てました。
「僕は“やまと絵”と云う、古えの日本人が生み出した絵を現代に生きる絵画として復活させていきたい、って思っています。
でも今は、先生の下で、先人たちが遺した作品をお手本にしながら、やまと絵の基本を習得しているところです。それは何年もかかるけれど、でも人から教わりながら、基礎をしっかりと身に付けていかなければ、本物を生み出すことも出来ないし、ましてその道での本当の成功なんて有り得ないと思うんです。
基礎工事のいい加減な家が“欠陥住宅”と呼ばれるのと同じようなもので…」
そうなんだわ…。
彼の言葉に、わたしは代役を通して味わったあの“危機感”は、けっして誤りではないことを確信しました。
そして彼の姿に、女優としての成功を夢見て東京へ出て来たばかりの、つい一年ちょっと前の高島陽也を―“おもかげ”を見る思いがしました。
マイナーチェンジをめざして「新世紀大衆演劇」などと銘打って、シャレたつもりで劇団名を横文字にしても、内情は“ヨロシク”と云う用語に象徴される、ロクに稽古もしない行き当たりばったりな芝居や、タダの見様見真似に過ぎない日舞紛いの“舞踊ショー”なるもので当座限りの拍手をもらい、そんな低俗な小手先芸を「自分たちは機転を利かした芝居が出来る」などと勘違いし、お客にオヒネリを飛ばさせることばかりを考える、話しに聞く「旧態」と何ら変わりの無い下卑根性の世界にいても、そこからは本物の演技力なんて身に付きはしない。
当たり前ね。
やっていることが初めから、本道から外れた紛いモノなのだから!
そうだわ。
彼の言う通りよ。
このままでは、わたしは“欠陥住宅”になってしまう。
まだ女優として何も経験していないうちから、いきなりそんなところへ堕ちて行くな、高島陽也…!
〈続〉
「あ、すみません…」
と慌ててスケッチブックを閉じ、Dバッグを掴んで立ち上がって、脇によけようとしました。
「ああ、そんな、いいんです…」
と、こちらこそ慌てて両手を振るわたしを見て、青年はその端麗な面差しに「…?」といった表情を浮かべると、
「あの…、もしかして、先ほど文化ホールで…?」
わたしは確かに、自分の胸がドキンと鳴ったのを聞きました。
「え?はい…」
「やっぱり、そうですか…」
青年はニコッとしました。
それは、美しさのなかにどこか少年っぽいあどけなさを残した表情でした。
「あの時はビックリしました…」
「お恥ずかしいところを…」
「お怪我、本当にありませんでしたか?」
「はい、本当に大丈夫です…」
と言ったきり、あの時ように、またお互いに続きの言葉が出て来なくなって、
「……」
「……」
そして思わず吹き出して。
でもそれが、わたしたちを話し掛け易くするキッカケとなって。
「でもよく、あれがわたしだってお分かりになりましたね」
「ああ、いま声を聞いて…」
「そうですか…」
「それと…」
美青年はちょっとはにかんだような瞳(め)をして、「目元…」
「目元?」
美青年は自分の目元を指差して、「紅…」
「紅?」
「うっすらと残ってます…」
あっ、とわたしは、自分の両方の目元を指先でこすると、目張(めは)りの紅が薄く一筋…。
うわぁ…!
「すみません、ありがとうございます。ちゃんと落としきれてなかったみたいで…」
わたしは急に恥ずかしくなって、まだ白粉が残っていないか、慌てて耳の後ろをこすってみました。
「やはり、舞台化粧って顔の雰囲気を変えるものですね」
「実物はこんな顔です。スミマセン」
無意識のうちに、わたしは軽口を叩いていました。
わたしは人見知りはしない方ですけど、初めて会うような人にこんな事を口にしたことはありませんし、実際そんなことは後にも先にも、この時だけです。
何て言うのかな、彼には人をそんな気にさせる、親しみやすさみたいなものを持っていました。
「あ、別にそんな悪い意味で言ったんでは…」
本気で困惑したらしい彼の様子が、わたしには愛らしく映りました。
「冗談ですよ」
「はぁ…」
わたしは彼が小脇に抱えているスケッチブックに目を留めました。
「写生中、だったんですか?」
「ああ…」
彼はスケッチブックをちょっと振ってみせて、
「…そうですね」
「絵を描くのが趣味なんですか?」
「と言うか、画家…、“絵師”志望なんですよ、僕」
「えし?」
「はい」
彼が誇りを感じさせる頷き方をしたからでしょうか、わたしは彼のスケッチブックのなかを見てみたくなりました。
「どんな絵を描かれるんですか?」
「あぁ…」
彼はまた、瞳(め)はにかんだ表情を浮かべました。
…そうですね、彼は端麗な顔立ちのなかでも、特に瞳(め)が綺麗でした。
本当にいい瞳をしていました。
いつまでも見詰めていたくなるような…。
「まだ勉強中ですから、人に見せたことがないんですけど…。でも、あの、よろしければ…」
「いいんですか?」
「はい」
彼は整った唇を三日月に結んで、
「ただし…、期待しない、と云う約束で」
「そんな…」
彼がおずおずと差し出すスケッチブックを、わたしはおずおずと受け取って、表紙を開きました。
そこには、鉛筆による風景のデッサン画が、何ページにもわたって広がっていました。
そしてそれは、絵のことはよく分からないんですけど、洋画っぽくなくて、和物系な感じだったんです。
はっきりそうとわかったわけじゃないんです。
何て言うんだろう、目にした瞬間、日本人としての心がそれを読み取った、みたいな…。
鉛筆で描かれているから当然モノクロなんですけど、でもわたしには、そこから色鮮やかに彩られた原風景を彷彿とさせることが出来ました…、いや、わたしが、ではなくて、彼の絵に、それだけの魅力(ちから)があった、と言うべきです。
「……」
気が付くと、わたしは彼のデッサンを真剣に鑑賞していました。
「どうです、かね…?」
彼は不安そうにわたしに訊ねました。
「羨ましいくらいの才能だと思います」
それが、この美しい青年がスケッチブックに描いた世界への、高島陽也の正直な感想でした。
「“いいもの”を見せていただきました」
わたしはスケッチブックを丁寧に閉じて、彼に返しました。
「ありがとうございます…」
彼は面映ゆそうに作品を受け取りながら、「これで少し、自信が持てます」
わたしの右手は、自然と彼の腕に触れていました。
「少しだなんて…。“大い”に持ってください。絵を始められて、どれくらいになるんですか?」
「本格的に始めたのは高校一年の時だから…、五年くらい、ですかね」
「って言うといまは…」
「今年で二十歳になりました」
「わたしも今年の十二月で二十歳になるんです。ということは、同年代…!」
「へぇ…!」
このあたりから、何だか数年前からの知り合いみたいな感じになってきました。
「ぜひ、成功してほしいです」
「でも、今はまだまだ、基礎を固めている最中です」
……。
“基礎”と云う言葉に、わたしの心は微かな音を立てました。
「僕は“やまと絵”と云う、古えの日本人が生み出した絵を現代に生きる絵画として復活させていきたい、って思っています。
でも今は、先生の下で、先人たちが遺した作品をお手本にしながら、やまと絵の基本を習得しているところです。それは何年もかかるけれど、でも人から教わりながら、基礎をしっかりと身に付けていかなければ、本物を生み出すことも出来ないし、ましてその道での本当の成功なんて有り得ないと思うんです。
基礎工事のいい加減な家が“欠陥住宅”と呼ばれるのと同じようなもので…」
そうなんだわ…。
彼の言葉に、わたしは代役を通して味わったあの“危機感”は、けっして誤りではないことを確信しました。
そして彼の姿に、女優としての成功を夢見て東京へ出て来たばかりの、つい一年ちょっと前の高島陽也を―“おもかげ”を見る思いがしました。
マイナーチェンジをめざして「新世紀大衆演劇」などと銘打って、シャレたつもりで劇団名を横文字にしても、内情は“ヨロシク”と云う用語に象徴される、ロクに稽古もしない行き当たりばったりな芝居や、タダの見様見真似に過ぎない日舞紛いの“舞踊ショー”なるもので当座限りの拍手をもらい、そんな低俗な小手先芸を「自分たちは機転を利かした芝居が出来る」などと勘違いし、お客にオヒネリを飛ばさせることばかりを考える、話しに聞く「旧態」と何ら変わりの無い下卑根性の世界にいても、そこからは本物の演技力なんて身に付きはしない。
当たり前ね。
やっていることが初めから、本道から外れた紛いモノなのだから!
そうだわ。
彼の言う通りよ。
このままでは、わたしは“欠陥住宅”になってしまう。
まだ女優として何も経験していないうちから、いきなりそんなところへ堕ちて行くな、高島陽也…!
〈続〉