“金剛地”地区を抜けて再び県道6号線に合流し、塩川に架かる塩川橋を渡れば、甲府柳町宿より3里、まもなく韮崎宿に。
予定通り、ほぼ3時間かかって到着。
武田晴信(信玄)がこの地で治水工事を行って以降だんだんと人が移り住むようになり、やがて宿場町が形成されたのだとか。
上段写真の右手が本陣跡で、現在は眼科医院となっています。
町並みそのものに当時の面影はないように見えますが、道沿いの一部の建物をよく見ると、道に対してやや斜に構えて建てられていることがわかります。
これは古い建物によく見られるパターンで、魔よけとも、敵が襲って来た時に弓や鉄砲で迎え撃つためともいわれています。
そういった昔の知恵がわずかでも残されているのは、いいことです。
ちなみに韮崎宿は宝塚歌劇の生みの親である小林一三の育った地で、本陣から程近い場所にあった生家「布屋」の跡が、現在は憩いの広場として整備されています。
小林一三と云うと、何となく関西出身というイメージがあっただけに、甲州道中の宿場町出身とは意外でした。
予定通り、ほぼ3時間かかって到着。
武田晴信(信玄)がこの地で治水工事を行って以降だんだんと人が移り住むようになり、やがて宿場町が形成されたのだとか。
上段写真の右手が本陣跡で、現在は眼科医院となっています。
町並みそのものに当時の面影はないように見えますが、道沿いの一部の建物をよく見ると、道に対してやや斜に構えて建てられていることがわかります。
これは古い建物によく見られるパターンで、魔よけとも、敵が襲って来た時に弓や鉄砲で迎え撃つためともいわれています。
そういった昔の知恵がわずかでも残されているのは、いいことです。
ちなみに韮崎宿は宝塚歌劇の生みの親である小林一三の育った地で、本陣から程近い場所にあった生家「布屋」の跡が、現在は憩いの広場として整備されています。
小林一三と云うと、何となく関西出身というイメージがあっただけに、甲州道中の宿場町出身とは意外でした。