千葉縣の浦安と云ふと、まず鼠國(DL)、海沿ひに續く工場と物流拠點、そして地下鐵東西線の車窓にいつまでも廣がる住宅地──
現在では働く人々が寝に帰る町、と云った印象があるが、江戸時代には塩作りから始まった魚介類豊かな漁師町であり、戰後までは海苔作りも盛んな町であった面影が、浦安市郷土博物館に再現されてゐるとのことで、ひとつ出かけてみる。
博物館の屋外展示がそれで、昭和二十七年頃の様子を移築や復元された建物で軒を連ねる。
房州や総州で海苔作りが始まったのは江戸後期の文政五年(1822年)、江戸から来た近江屋甚兵衞と云ふ人物が現在の君津市(當時は人見村)で成功させたのがきっかけで、
やがて近隣でも養殖が始まり“上総海苔”と云ふ名産品となるが、浦安で海苔作りが始まったのは明治三十一年(1898年)と遅く、
それも土地の名士が東京大森の海苔作りの様子を視察して決定云々、かつて江戸時代に前述の近江屋甚兵衞がこの土地でも海苔作りを薦めたが拒否したと云ふ歴史も絡んでゐるか。
やがて浦安の基幹産業にまで成長した海苔養殖だが、戰後になると海を埋め立てた工業地帯より排出された汚水によって水質は著しく惡化し、漁師たちが工場へ殴り込みをかけるなどの大騒動を經て、昭和五十年(1975年)に漁業權を放棄したことで、浦安の海苔養殖は終焉する。
手本にした東京大森がオリンピックにかこつけた湾岸整備事業で昭和三十七年に漁業權を放棄したのに比べて、ずいぶん長く頑張ったのだなと思ふ。
内陸部に地下鐵東西線の浦安驛が開業した昭和四十四年の頃には農業も終焉し、地下鐵が高架線で開通して東京中心部とつながったことが、
浦安と云ふ町の歴史と性格に一本の仕切り線を引いたとも思へた。
しかしそれは、誰よりも自分たちで選んでつくった歴史なのである。