舞阪宿を出て、新町信号で国道1号線と交差した先には、馬郡(まごおり、古くは“まんごおり”と云ったようです)バス停手前までの約700㍍にわたって、みごとな松並木が続いています(上段写真)。
馬郡バス停を過ぎると、道は民家が両側に連なるなかを延々と進んで行きますが、
馬郡町の東の外れに松並木の名を冠した医院があるのは、昔の景色を偲んだものでしょうか。
昔は立場(休憩所)がおかれていた篠原町を過ぎると国道257号線に合流、海側の歩道には、
往年の松並木の生き残りが幹も立派な姿となって、これより数キロにわたって点在しています。
さらに十分ほど行った増楽(ぞうらく)町には、浜松領と堀江領との境界を示す近年の標柱が立てられていますが、その領界石の実物は、
さらに少し東へ行ったアパレルショップの駐車場の一角に移されています。
お互いにお辞儀をしているかのような形に幹の曲がった面白い松を見て過ぎると、
藤原秀衡とその愛妾の“真実愛”の象徴ともいうべき「二つ御堂」を左に見ながら道は左へカーブ、
現在もバス停名にその名を留める「八丁畷」を経て、
やがて東海道新幹線、次に東海道本線の高架下を抜け、いよいよ浜松の御城下へと入ります。
さすが遠州最大の都市だけあって、塩町、旅籠町、伝馬町、大工町など、いかにも昔を彷彿とさせる町名を通るにつれて次第に繁華な雰囲気となり、「さすがだなぁ……」と、気持ちが浮き立ちます。
↑写真左側の杉浦本陣跡を過ぎ、連尺町の交差点を鈎の手に右折するのが旧東海道ですが、そのまま直進して浜松城を訪ねることにします。
岡崎城を長男の信康に譲った徳川家康は元亀元年(1570年)から十七年にわたって在城し、三方ヶ原、姉川、長篠、小牧•長久手と歴戦、その後は譜代大名が代々城主となって─水野越前守忠邦など─、明治維新を迎えました。
現在の天守台は昭和三十三年に再建されたもので、長短の平石を積み上げた粗野にも見える独特の石垣は「野面積(のづらづみ)」と呼ばれ、慶長の頃にはよく行われていた手法だそうです。
ちなみに浜松は、古くは「引馬(ひくま)の宿」と云ったそうですが、室町幕府六代将軍の足利義教が富士山見物のため当地に下向した際の酒宴で、
“浜松の音はざざんざ……”
云々と唄ってからは、浜松と改められたとか。
──と言うわけで、これより先の探訪は、またいづれ……。
馬郡バス停を過ぎると、道は民家が両側に連なるなかを延々と進んで行きますが、
馬郡町の東の外れに松並木の名を冠した医院があるのは、昔の景色を偲んだものでしょうか。
昔は立場(休憩所)がおかれていた篠原町を過ぎると国道257号線に合流、海側の歩道には、
往年の松並木の生き残りが幹も立派な姿となって、これより数キロにわたって点在しています。
さらに十分ほど行った増楽(ぞうらく)町には、浜松領と堀江領との境界を示す近年の標柱が立てられていますが、その領界石の実物は、
さらに少し東へ行ったアパレルショップの駐車場の一角に移されています。
お互いにお辞儀をしているかのような形に幹の曲がった面白い松を見て過ぎると、
藤原秀衡とその愛妾の“真実愛”の象徴ともいうべき「二つ御堂」を左に見ながら道は左へカーブ、
現在もバス停名にその名を留める「八丁畷」を経て、
やがて東海道新幹線、次に東海道本線の高架下を抜け、いよいよ浜松の御城下へと入ります。
さすが遠州最大の都市だけあって、塩町、旅籠町、伝馬町、大工町など、いかにも昔を彷彿とさせる町名を通るにつれて次第に繁華な雰囲気となり、「さすがだなぁ……」と、気持ちが浮き立ちます。
↑写真左側の杉浦本陣跡を過ぎ、連尺町の交差点を鈎の手に右折するのが旧東海道ですが、そのまま直進して浜松城を訪ねることにします。
岡崎城を長男の信康に譲った徳川家康は元亀元年(1570年)から十七年にわたって在城し、三方ヶ原、姉川、長篠、小牧•長久手と歴戦、その後は譜代大名が代々城主となって─水野越前守忠邦など─、明治維新を迎えました。
現在の天守台は昭和三十三年に再建されたもので、長短の平石を積み上げた粗野にも見える独特の石垣は「野面積(のづらづみ)」と呼ばれ、慶長の頃にはよく行われていた手法だそうです。
ちなみに浜松は、古くは「引馬(ひくま)の宿」と云ったそうですが、室町幕府六代将軍の足利義教が富士山見物のため当地に下向した際の酒宴で、
“浜松の音はざざんざ……”
云々と唄ってからは、浜松と改められたとか。
──と言うわけで、これより先の探訪は、またいづれ……。