ラジオ放送で、觀世流「野宮」を聴く。
謠の詞章も、「火宅の門をや出でぬらん、火宅の門」と尻切れトンボに終る珍しい書き方をすることで、この高貴な女性が現世に強い未練を残してゐることを、抑へた調子のなかにも強く印象付けることに成功しており、不詳の作者の非凡さが窺へる。
私はこの能を現在では無い渋谷區松涛の舞台で一度観てゐるが、件の「火宅の門」しか記憶にない。
上演時間の長い曲ではあるが、謠ひのその部分さへ味はへれば、それで充分な曲と云ったら極論に過ぎるだらうか?
ただ、この曲は明らかにオトコ目線で女性を描ひた曲であり、過ぎた昔の戀にいつまでも、ましてや死んだのちまでもメソメソしてゐるオンナなど、實際にはゐないはずだ。
本篇前には名前を聞ひたこともない演劇感想家が解説らしきものをダラダラ駄辯った挙げ句──駄辯り過ぎて持ち時間が無くなり、終いが露骨に駆け足となってゐたのは失笑もの──、「この曲だけで六條御息所の心情を理解するのは難しいので、舞台となった京都の野宮神社に行くことをお薦めする」などとごく個人的な考へを押し付けて締めくくる。
“これから謠ふ能樂師の技量(うで)では足りないため”──と云ってゐるやうにも聞こえて、二度の失笑。