迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

「なむあみだ佛はうれしきか」。

2019-09-23 23:29:07 | 浮世見聞記
秋の開山忌が行はれてゐる神奈川県藤沢市の遊行寺にて、「踊り念仏」を観る。



開始の十五時まで、まうひとつの目的である遊行寺宝物館の特別展「真教と時衆」を見る。



真教とは時宗の宗祖である一遍の二代目で、その偉業を本邦初公開の寳物などを通して追ふうち、時衆の僧たちが片瀬浜の地蔵堂で踊り念仏を興行してゐる絵巻に当たる。

地蔵堂の近く、おそらくは道端であらう場所には、四方の柱に板らしきを載せただけの粗末な小屋に、飢餓のごとく黒ずんだ貧民が横たわってゐる。

その板の上に干した米らしき食べ物を烏が狙っており、そのうちの貧民が痩せこけた腕で打ち物を振り上げ、追ひ払おうとしてゐる──

そんな過酷な現実世界が踊り念仏の僧たちとまったく無関係に存在してゐることに、私は御仏の教へといふ〝理想〟と、現実との乖離を見る。

それが、この特別展における私の収穫。



時間に合はせて本堂に入ると、進行役の僧の解説に続ひて、「藤沢市踊り念仏保存会」の女性たちによる奉納が始まる。

〝なむあみだぶつ ありがたや〟と繰り返し唱ひながら中央で打ち鳴らす太鼓を囲むと、首から提げた鉦を一定の拍子で打ち鳴らしつつ、



反時計回りに軽ひ跳躍のやうな身振りを見せる。

古来、日本の藝能は神仏の教へを衆庶に解りやすく説くための手段として発達したものださうだが、



当時、一遍上人の新興宗派に多くの賛同者を獲得するには、かうした鉦太鼓を賑やかに打ち鳴らしての集団踊りは視覚的にもさぞ効果があったことだらう。


踊り念仏は二十分ほどで終わり、ここで引き上げるつもりだったが、今日ここに来られたのも御縁あってこそと、〝西方浄土〟に思ひを馳せる「日想観法要」にも続ひて参加することにする。

最後に遊行寺の當代上人からお札をいただき──衆庶は呉れるといふものに弱ひ──、今日の開山忌はお開き。



前から関心のあった踊り念仏を実見する機会に恵まれ、また法要の一端に触れることが出来たことに、今日は素晴らしい御縁を戴ひたのだと、私は心から感謝する。







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